【斬新】映画『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)を観よ。未経験の鑑賞体験を保証する
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映画『王国(あるいはその家について)』は、視覚的にはシンプルながら凄まじく挑発的という、実に衝撃的な作品だった
久々に、ある意味で恐ろしくぶっ飛んだ、何なら”狂った”と表現してもいいくらいの映画を観た。たぶん私の中で「永遠に未消化のままの作品」になるだろうと思う。しかし、ややこしいことは考えずに、「鑑賞した」という事実だけをまず評価してみるとするなら、「観られて良かった」という感想になる。こういう表現はちょっとありきたりかもしれないが、本作を観て私は、「『映画』という表現形態の可能性が少し広がったのではないか」とさえ感じたのだ。とにかく、「同種の作品を観る機会などなかなかないだろう」という意味でも、非常に稀有な鑑賞体験だったなと思う。
作中のあるシーンの会話を丸ごと再現する
さて本作は、とにかく内容の紹介が非常に難しい。そこで、「説明を容易にする」という目的も兼ねて、作中のあるシーンの会話を丸々書いてみたいと思う。ちなみに、映画中に取ったメモと自分の記憶を元に再現しているので、細部まで正確というわけではない。あくまでも、「全体的にはこういう雰囲気のやり取りだった」ぐらいの捉え方をしてもらえたらと思う。
さて、この会話そのものに何か意味があるというわけではない。交わされているやり取りは、よくある雑談程度のものだろう。問題は、「何故私は、このやり取りを記憶しているのか」である。
「台本読み」がそのまま映し出される特異な構成と、本作に通底する「王国」というテーマについて
私は決して、記憶力が凄まじく良いわけではないので、普段は、映画を観て作中のワンシーンの会話を丸々記憶するなどということはまずあり得ない。では今回はどうして、会話の再現が出来ているのか。
その理由はシンプルだ。作中で、このやり取りが何度も何度も繰り返し行われるからである。複数のシーンが何度も流しだされるのだが、繰り返される回数はシーン毎に一定というわけではない。ちゃんと数えていたわけではないが、私の体感では、先に文字起こししたこのシーンが最も多かったのではないかと思う。20回以上は観たような気がする。
別に、「タイムループものの作品だから、同じシーンが繰り返されている」みたいなことではない。本作は実は、「3人の役者が台本読みをしている、まさにその様子が映し出される作品」なのである。私が何を言っているのか、理解できるだろうか?
まずは、彼らが読んでいる台本の内容にざっくり触れておこう。「亜希・野土香・直人という、大学時代同じサークルに所属していた3人が、野土香・直人夫妻の娘・穂乃香を含めた関わりの中で、人間関係に様々なしこりが生まれる物語」というストーリーである。そして本作『王国(あるいはその家について)』は、「澁谷麻美・笠島智・足立智充という3人の役者が、この物語の台本を片手に読み合わせを行っている様子」をカメラで切り取り、ある種ドキュメンタリー的に観客に提示する作品というわけだ。
冒頭、動きやすそうな服を着て、役者たちは稽古場のような場所に置かれたパイプ椅子に座っている。読み合わせが進むにつれ、「車内」や「ダイニング」などを簡易的に再現する状況づくりが行われるが、あくまでも立ち位置などをイメージしやすくするためのものでしかなく、観客からすればやはりそこはただの稽古場でしかない。そしてそのような空間の中で、ひたすら「台本の読み合わせ」だけが行われるのである。
これは、「映画制作のプロセス」というより「演劇制作のプロセス」であるように私には感じられた。演劇の場合は普通、観客は「完成されたもの」しか観られない。しかし本作では、その「稽古の様子」が映し出されているようなものだ。「稽古」なのだから当然、役者は何度も同じ箇所を繰り返す。役者が横並びに座ったり、向かい合わせだったり、あるいは簡易的なセットの中で行ったりと若干状況は変わるが、セリフ自体はすべて同じだ。いや、稽古が進むにつれ役者は台本を持たなくなるので、そうなって以降は毎回セリフに若干の差異が生まれはする。しかし逆に言えば、その差異に気づけるぐらい同じやり取りを何度も繰り返しているとも言えるだろう。
さて、そのような作品なので当然ではあるが、観客は「役者が次にどんなセリフを口にするのか知っている」という状態で目の前のやり取りを観ることになる。小説でも映画でも何でも、同じ作品に何度も触れれば同じ状況になるわけだが、初見の作品でそのような感覚に陥ることなどまずあり得ない。まずこの点が、本作を観る際の非常に特異な体験と言えるだろう。
さらにこの状況は、別の効果ももたらしているように思う。本作『王国(あるいはその家について)』では、冒頭のシーンなどの一部を除けば、「亜希・野土香・直人の物語世界」が視覚的に提示されることはない。そのほとんどが「稽古場」の中で展開される構成なのだから当然だ。しかし同じセリフが何度も繰り返されることによって、「亜希・野土香・直人の物語世界」が視覚化されていくような感覚に陥っていくのである。「『セリフの多重録音』によって状況に厚みが増していく」とでも言えばいいだろうか。実際には存在しない「亜希・野土香・直人の物語世界」が目の前に現出するかのような錯覚に陥るのだ。
そしてそのことは、「亜希・野土香・直人の物語世界」において重要なテーマの1つとなる「王国」にも接続されていくように思う。
台本の世界の中で、「王国」という言葉は特別な意味合いを持つ。亜希と野土香は既に社会人になっているが、元々は幼馴染である。そして彼女たちには、「22年前の台風の日に、椅子とシーツで『王国』を作った」という記憶があるのだ。また2人は、作り上げた「王国」への扉をくぐるための「合言葉」となる歌も定めた。そしてそのことが、22年後の今、「ある事件」に大きな意味合いを持つのである。
その「王国」はもちろん、彼女たちが「王国」と呼んでいるだけのものであり、実際には「シーツで仕切られた空間に椅子が置かれている」という程度の存在に過ぎないだろう。2人以外にとっては「王国」と名付けるような価値などないはずで、「存在しないもの」とさえ言ってもいいかもしれない。しかしこの「王国」は、2人にとっては「確かな感触をもたらす存在」なのである。
そしてこのような捉え方は、本作『王国(あるいはその家について)』と観客との関係性にも当てはまると言えるだろう。台本の朗読によってしか浮かび上がらない「亜希・野土香・直人の物語世界」は、観客にとっては「存在しないもの」である。しかし同時に、セリフの執拗な繰り返しによって、「その世界が可視化されたような気分」になり、そのことによって「『亜希・野土香・直人の物語世界』が『確かな感触をもたらす存在』に感じられるようにもなる」というわけだ。
本作が何をどのように意図して作られているのか正直よく分からないのだが、私にはまずこの対応関係が非常に鮮やかだと感じられたのである。
「亜希・野土香・直人の物語世界」についての説明
さて、一旦ここで、「亜希・野土香・直人の物語世界」について少し具体的に触れておこうと思う。本作『王国(あるいはその家について)』では、時系列も無視してあらゆるシーンの台本読みがランダムに提示されるので、以下に書くことはあくまでも私が自分なりに再構成したストーリーに過ぎないが、恐らく大きな誤りは無いと思う。
亜希は体調不良が長く続いたこともあり、出版社での勤務をしばらく休むことにした。そして、都心の自宅から電車で1時間半ほどの距離にある茨城県龍ケ崎市の実家に戻ることに決める。幼馴染の野土香とはあらかじめ連絡を取っており、同じサークルで1個上の直人先輩との結婚式以来4年ぶりの再会となった。そんなわけで、3歳になる娘の穂乃香と会うのも、彼らが建てた家を訪ねるのも、これが初めてである。
家の中に入った亜希は当初、「隅々まで行き届いた居心地の良さ」をそこに見て取った。しかし次第に「窮屈さ」を感じるようになっていく。その理由はひとえに、夫・直人の神経質さによるものだと思われた。教師である直人は、娘のために細部に渡って神経を張り巡らせているようなのだ。そして「そのせいで野土香が息苦しさを感じているのではないか」と亜希には感じられてしまうのだった。そんなこともあり、亜希はその後も家を訪ねた際は、彼らの生活に”助言”するようになっていく。
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