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【最新】「コロンブス到達以前のアメリカ大陸」をリアルに描く歴史書。我々も米国人も大いに誤解している:『1491先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』

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「コロンブスが到着した頃のアメリカ」については、アメリカ人でさえ正しく理解できているわけではない

著者は本書のテーマとどう出会い、どう掘り下げていったのか

本書のテーマは、この一文を抜き出すだけで理解できる。

コロンブスが到着したころの新世界はどんなところだったのだろう?

著者がこの「問い」に出会ったのは、コロンブスによる大陸到着500周年にあたる1992年のことだったそうだ。

著者はこの「問い」に触れ、学生時代の歴史の授業を思い返してみた。基本的に南北アメリカの歴史は、コロンブスがやってきてからのものしか語られない。そして、著者自身もそうだと言っているが、アメリカ人の多くは、「コロンブスが到着する以前のアメリカなんかには大した文明も存在せず、少数の人々が原始的な生活をしていただけだろう」と考えていた。

しかし著者は、そうではないことを知る。

そのときは知らなかったが、多くの研究者が生涯をかけてこれらの疑問に答えを出そうとしていたのだった。彼らが明らかにした当時の大陸のようすは、たいがいの欧米人が持っているイメージとはまったく異なっている。だがそれは、いまだに学会の外の人々にはほとんど知られていない。

「文明など存在しない原始的な生活」というよくあるイメージとはかけ離れた世界が既に明らかになっている。しかしそれらは研究の世界の外にはまったく知られていないと著者は気付いたのだ。

しかしその時点ではまだ、著者は本書の執筆など考えてもいなかった。それはある意味で当然だろう。というのも、著者は考古学者でも人類学者でも歴史学者でもなく、世界各国の一流誌に寄稿実績を持つサイエンスライターだからだ。歴史はまったくの門外漢であり、自分が手を出す領域ではないと考えていた。

しかし、やがて著者は、「コロンブス到着以前のアメリカの歴史」を著す決意をする。そのきっかけについてこんな風に書いている。

これはすごい、とわたしは思った。だれかが書くべきだ。きっと魅力的な本になるぞ、と。
わたしはそうした本が出版されるのをずっと待っていた。だが待っているうちに息子が学齢に達して、わたしが子供の頃に習ったとおりのことを――もうかなり前から疑問視されていた内容を――また学校で習いはじめ、いてもたってもいられない気持ちになってきた。そこでついに、だれも書いていないようだから自分で書いてみようと思い立ったのだ。

このようにして、畑違いの歴史分野に足を踏み入れることになったのである。

確かに専門外ではあるのだが、著者はサイエンスライターとして様々な専門家に話を聞き、実際に現場を見てきた経験があり、それを今回の取材にも活かすことができた。また、歴史は科学とは大きく異なり、発表された学説が「個人攻撃」「派閥争い」に発展することが多い。それ故、まったく畑違いの人物だからこそ様々な学説にアプローチでき、さらにそれらを公平に扱うことも可能だったと言っていいと思う。

また詳しくは後述するが、私は「歴史」という学問に対していささか嫌悪感を持ってしまうきらいがある。しかし、著者が科学者のようなスタンスで著してくれたお陰で、普段なら感じてしまうことが多い嫌悪感を抱かずに済んだ。そういう意味でも、サイエンスライターによる歴史書という本書の造りは、とても好ましいものに感じられる。

いずれにせよ本書は、「コロンブス到着以前のアメリカの歴史」というテーマが非常に秀逸であり、基本的に歴史にはまったく興味が持てない私のような人間にも非常に面白く読めてしまう見事な作品だと感じた。

私が抱いてしまう「歴史」という学問への「嫌悪感」について

まず、私が何故「歴史」という学問を好きになれないのかについて触れておきたいと思う。その説明をした上で、「本書の何が面白く感じられたのか」について触れていくつもりだ。基本的には本書の内容とはまったく関係がないので、特に興味がないという方は飛ばしていただいて構わない。

私は小学生の頃には既に、歴史の授業に対して違和感を覚えていた。その最大の理由は、「これこれこうでした」と断言するような形で説明されることだ。私はそれに対して、「断言するほど確実なことなのか?」と常に疑問に感じていた。

例えば、私が学生だった頃は、鎌倉幕府の成立年は1192年だった。「いい国作ろう鎌倉幕府」というのは恐らく、語呂合わせの暗記法として一番有名だろう。しかし現在多くの教科書では1185年に変わっているそうだ。どのような背景からそうなったのかは知らないが、私たちが覚えた1192年は一体なんだったんだ、と感じる。

あるいは、歴史の教科書から「聖徳太子」という表記が消えるらしい。この話はややこしいので詳しくは触れないが、要するに、「『聖徳太子』のものとされる功績を1人で行ったと考えるのは無理がある」ということのようだ。「聖徳太子」のモデルとされる「厩戸皇子」は実在の人物だが、「聖徳太子」と呼ばれるべき個人は実在しなかったのではないか、というのが現在の通説らしい。

このように、教科書の記述が変わることもある。であれば、「これこれこうだった”可能性がある”」という風に教えてほしかったと私は感じてしまう。

もちろん、科学だって教科書の記述は変わる。例えば、恐らく教科書には未だに「物質を構成する最も小さなものは原子」と載っているだろう。しかし既に、原子よりも小さな存在として「クォーク」が知られている。

しかし、歴史と科学では大きな違いがあると私は思う。それは、「明確な証拠の存在」だ。

科学では、「誰が実験を行っても同じ現象が再現される」と確認されて初めて、「これが現時点では最も正しい」と認められる。未発見の現象・効果が新たに見つかることで、それまでの理論が覆される可能性は常にあるが、科学の場合は、「その時点での正しさを確定させる証拠」が存在すると言っていいだろう。

しかし歴史の場合、それがどんな「証拠」であれ「確実」と呼べるものなど存在しないのではないか、というのが私の基本的な考えだ。科学の場合、「覆る可能性は常にあるが、その時点では絶対的な証拠が存在する」と言える。しかし歴史の場合、「絶対的と呼べる証拠」などほとんど存在し得ないと思っている。

もちろん、考古学の分野であれば、骨や土器などを科学的に分析することで、かなり客観性の高い証拠が得られると思う。しかし、書物や手紙など「人間が記したもの」を証拠にする場合、どうしても「曖昧さ」「不確実さ」が混じることになるはずだ。

例えばこんな風に考えてみよう。今から1000年後の未来に、2022年に使用されたスマートフォンが発見された。そしてその内部の情報を解析し、残された写真やSNSの記述、GPSで記録された経路などが判明したとする。では1000年後の歴史学者が、そのスマートフォンを元に「2022年はこのような時代だった」と判断するのは、歴史を正しく捉えていると言えるだろうか?

2022年を生きた1人の人間のスマートフォンから得られる情報が、その時代を明確に反映していると考えるのは難しい。そして似たようなことを、私は歴史という学問に対して感じてしまうのだ。

歴史研究ではもう少しちゃんとした公的な文書を元に判断している、という反論もあると思う。しかし、仮にそれが公文書だとしても、都合よく改ざんされている可能性は常にある。我々だって、森友学園問題でその事実を改めて認識したはずだ。あるいは、改ざんされていないとしても、公文書が現実をきちんと反映しているかはまた別問題だ。「統計によれば、経済成長率が上がっている」などのニュースを耳にしても、それは私たち全体の実感とはかけ離れているかもしれない。

つまり、それが「人間による記録」である以上、「確実な証拠」にはなり得ない。そして歴史を教える際には、このことも一緒に伝えるべきだと私は思っているのだ。

しかし歴史の授業では、「このようなことがかつてあった」と、まるで断定するかのように教わる。そのことに、私は子どもの頃から苛立ちを覚えていた。大人になってからも、歴史の記述を読むと、なんだかイライラしてしまうことがある。

しかし本書は、サイエンスライターが書いていることもあり、断定するような押し付けを感じずに済んだ。様々な専門家の多様な意見が同時に提示された上で、門外漢である著者が最も可能性が高いと思うシナリオを物語的に提示する、というスタンスが明確なので、普段どうしても感じてしまう違和感を抱かずに読める。

そういう意味でも本書は、私と同じような「歴史が好きではなく馴染みもあまりない人」でも楽しめる作品だと言えると思う。

本書の3つのキーワードと、歴史を語る上で注意すべき「ホームバーグの誤り」について

わたしはまず、1492年当時の先住民人口の推計値が引き上げられたことを、また、その理由について書いた。それから、先住民が従来の説より古くからこの大陸に住んでいたと考えられるようになった理由、彼らが従来の説よりも複雑な社会を築き、高度なテクノロジーを持っていたと考えられる理由を書いた。この章では、ホームバーグの誤りのバリエーションをもう一つ、取りあげたい。それは、先住民が環境をコントロールしなかった、あるいはできなかったという思い込みである。

本書で著者はこのように書き、「人口」「起源」「生態系との関わり」という3つの切り口を提示する。話題は決してそれだけに留まらないが、主にこれら3つの観点から、アメリカ人が思い込んでいる「『コロンブス到着以前のアメリカ』のイメージ」を覆す主張を様々に紹介していく作品だ。しかしそれらに触れる前にまず、アメリカ人がどのようなイメージを抱いているのか抜き出しておこう。

アメリカの先住民は、一万三千年ほどまえにベーリング海峡に出来た無氷回廊を通ってアメリカ大陸にやってきた。それからは、複雑な文明を築くことなく、槍などの原始的な道具で狩りをし、そこまで大規模な社会は存在せず、つまり人口も多くなく、自然の景観を損なうことなく自然に手を加えることなく、コロンブスがやってくるまでずっと生きてきた。

具体的に考えたことはないとしても、私たちも基本的に同じようなイメージを持っていると言っていいと思う。そしてこのイメージが本書によってどんどん覆されていくのだ。

さて、前述した引用中に「ホームバーグの誤り」という言葉が出てくるが、これについても説明しておこう。この用語自体は、著者の造語であるようだ。

ホームバーグというのは人名で、1940年から42年にかけてボリビア・ベニ地方に住む先住民シリオノ族と共に生活しながら彼らを研究した博士課程の若者である。そして彼がしてしまった「勘違い」を「ホームバーグの誤り」と名付けているわけだ。

ホームバーグはシリオノ族について、「世界で最も文化的に遅れた人々」と紹介している。その生活は、私たちがなんとなくイメージする「山奥で暮らす原住民」のものと同じと言っていいだろう。服を着ることはなく、飢えと貧困にさらされており、家畜を飼う余裕もなく、楽器や宗教らしきものも有していない、そんな生活だ。そしてホームバーグは、「彼らは太古の昔からこのような生活を続けてきた」と結論した。

しかしこれは「勘違い」であることが判明している。シリオノ族は、大昔からそのような貧しい生活をしていたわけではないのだ。ではなぜ彼らは、1940年の時点でそのような厳しい状況に置かれてしまっていたのか。

それは、1920年代にシリオノ族が暮らす地域でインフルエンザが大流行したからだ。ホームバーグがやってくるまでに、それまでの人口の95%以上が喪われたと後の調査で判明したのである。またシリオノ族は、彼らの土地を狙う白人の牧場経営者とも争いを続けており、その闘いに疲弊してもいた。様々な理由で、満身創痍だったのだ。

著者は、ホームバーグが置かれた状況をこのように表現している。

つまり、ナチの強制収容所から脱走してきた難民を見て、つねに裸足で腹を空かせている民族だと思いこんだようなものだった。

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