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【不穏】大友克洋の漫画『童夢』をモデルにした映画『イノセンツ』は、「無邪気な残酷さ」が恐ろしい

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子どもたちの「無邪気な残酷さ」に大人はどう向き合うべきか。そんな示唆にも富んだ映画『イノセンツ』の恐ろしさ

ストーリーがどう展開していくのかまったく想像できなかった、凄まじい作品

とんでもない作品だった。静かに淡々と展開されるのに狂気に満ちていること、子どもたちの物語であること、そして北欧の映画であることなど様々な点で、映画『ぼくのエリ』を彷彿とさせる雰囲気を持つ作品だと思う。

この映画については、公開直前まで私はその存在さえまったく知らなかった。映画館で予告を観たこともなければ、公開前に何かの評判が聞こえてくることもなかったのだ。そして公開直前になって、何がどう話題になっていたのか未だに知らないが、映画『イノセンツ』の名前をSNSでよく見かけることになった。そんなわけで、『イノセンツ』というタイトルと、少女が吊り下げられたようなメインビジュアルだけしか知らないまま、この映画を観に行こうと決めたのである。

もともと内容についてまったく何も知らなかったとはいえ、物語の中盤に差し掛かっても、どんな話なのか全然捉えきれなかったことには驚かされた。私は、内容や評判をまったく知らずに映画を観に行くのが好きなのだが、もし私と同じタイプの人がこの記事を読んでくれているとしたら、すぐに読むのを止めて映画を観た方がいい。何も知らずに観る方が、「物語に翻弄されていく感じ」が一層強く味わえるからだ。

私にとって幸運だったのは、映画のタイトルが『イノセンツ』だということだろう。原題をそのまま邦訳(というか英訳)したもののようだが、もし別のタイトルだったら、映画を最後まで観ても、何を描きたかったのか捉えきれなかった可能性があるからだ。

この映画で描かれているのは、要するに「イノセンツ(無邪気さ)」、つまり「子どもは無邪気なほどに残酷だ」ということなのだと思う。そしてそれを描き出すために「超能力」というモチーフが登場するのである。「超能力」の存在をとてもリアルに描き出すことによって、「子どもの残酷なまでの無邪気さ」を丁寧に描き出しているというわけだ。

普通に考えれば、「超能力」が登場する時点で「非現実的な物語」に仕上がってしまうはずだが、映画『イノセンツ』は決してそうはなっていない。観れば観るほど「現実そのものを抉り取っている」と感じさせる作品であり、そのバランスの取り方がとても見事だったと思う。さらに、この記事の後半で触れるが、「『大人の存在』が完全に排除されている」という本作の特徴的な構成も、物語全体の主題を浮かび上がらせる要素の1つと言えるだろう。

さて、私は鑑賞後に知ったのだが、映画『イノセンツ』は、大友克洋の『童夢』にインスパイアされて生まれた作品なのだそうだ。監督自身が、そのように公言しているのだという。私は『童夢』を読んだこともないので、その情報を事前に知っていたとしてもストーリーの展開を想像出来たとは思えないが、『童夢』を知っている人なら大体の想像がつくのかもしれない。しかし、『AKIRA』もそうだが、やはり大友克洋の影響力はとても強いんだなぁと改めて実感させられた。

まずは内容紹介

9歳のイーダは、郊外の団地へと引っ越してきた。両親と姉の4人家族である。姉のアナは重度の自閉症と診断されており、言葉を発することはおろか、自律的な運動も困難なほどだ。両親はそんなアナにも愛情を注いでいるのだが、当然イーダには不満がある。両親がアナにばかり構っていることや、時々アナのお守りをしなければならないことなど嫌なことばかりだ。しかし、彼女がその不満を表立って口にすることはない。

引っ越した時期は夏休み期間中であり、家族で旅行にでも出かけているのか、団地に残っている者は僅かだ。そんな中イーダは、同じ団地に住むベンという少年と仲良くなる。彼は不思議な力を持っていた。軽いものであれば、手を触れずにその落下軌道を変えることが出来るのだ。そんな普通じゃないところも、彼に惹かれた理由である。

その日イーダは、ベンと遊ぶために、アナをしばらくブランコに独りで座らせていた。しかしブランコに戻ってみると、そこにいるはずのアナがいなくなっている。彼女が自発的に動けるはずがない。近くを探してみると、アナはアイシャという女の子と一緒にいた。アナは喋れないはずなのだが、しかし2人を見ていると、どうもアナとアイシャの間で心が通じ合っているような感じがするのだ。実際アイシャは「アナの考えていることが分かる」と言うし、アナも普段と比べるとおとなしいように見える。

4人はこんな風にして出会った。ベンとアイシャは出会った当初から不思議な力を備えていたのだが、4人で遊ぶ内、なんとアナにも謎めいた力があることが判明し……。

私たちは「当たり前」をいつどのようにして学んだのか

冒頭でも触れた通り、映画『イノセンツ』は「無邪気な残酷さ」を描き出している。そしてその背景にあるのが、「何が『当たり前』なのかを知らない」という感覚なのだと私は感じた。

例えば、少し前にネットで見かけたこんな話はどうだろう。ママ友同士の会話の中で、ある親が「子どもがジブリ作品に興味を持ち始めた」と話したところ、先輩ママから「『人間は空を飛べない』って何度も教えた方がいいよ」とアドバイスされた、という話である。

私はこの話を読んだ時、「なるほど、確かにその通りだ」と感じた。人間が空を飛べないことなど「当たり前」なのだが、しかしその「当たり前」を私は一体いつどこで学んだのだろう? 「人間は空を飛べませんよ」と、誰かが教えてくれたような記憶はない。「空を飛ぼうとしてはダメですよ」なんて注意されたことだって恐らくないはずだ。しかしいつの間にか、「人間は空を飛ぶことが出来ない」という「当たり前」を理解している。

さらに、先ほどのママ友の話を踏まえれば、「生まれた時からそのことを理解しているわけではない」とも判断できるだろう。「空は飛べないよ」と子どもに注意しておかなければ、「自分もジブリの登場人物みたいに空を飛べるかも」と試してしまうかもしれないのである。

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