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【対立】数学はなぜ”美しい”のか?数学は「発見」か「発明」かの議論から、その奥深さを知る:『神は数学者か?』

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「数学」は「発見」か「発明」か、という問いを考えたことがあるだろうか?

まずは、何を問われているのか整理しよう

本書は、「数学は人間が発見したものなのか、人間が発明したものなのか」について考える作品である。

数学は人間の心とはまったく独立して存在するのか? つまり、天文学者が未知の銀河を発見するのと同じように、われわれは単に数学的な真理を発見しているのか? あるいは、数学は人間の発明にすぎないのか?

まず、この問いの意味が分からない、という方も多いだろうと思う。そこで、もう少し具体的な例で、この「発見」と「発明」について考えてみよう。

まずは「発見」から。プロでもアマチュアでも、夜空に望遠鏡を向けて天体を観測することができる。そして、それまで誰にも知られていなかった天体を発見すると、自分で好きな名前を付けられるようだ。

さて、あなたが新しい天体を見つけたとして、これを「発明」と主張する人はいないだろう。天体というのは、我々人間が観測するかどうかに関係なく「そこにあるもの」だ。望遠鏡を向けたから天体が生まれた、なんてアホな話はない。だから、星を見つけるプロセスは明らかに「発見」である。

では、言語はどうだろうか? 世界中には、日本語・英語・フランス語など様々な言語が存在する。これらについて「発見した」と主張する人は恐らくいないだろう。

例えば、「日本語」が「日本語を話す者」が現れる以前から存在していたとするなら、「発見」と呼んでもいいだろう。しかし、そんなわけがない。言語が生まれるプロセスは、明らかに「発明」である。

このように、「発見」なのか「発明」なのかは、それがどんな対象であるかによってかなり明らかに判断できるだろう。

では「数学」はどうだろうか? というのが、本書の問いである。

「発見派」と「発明派」のそれぞれの主張の骨子

数学の世界において、「発見派」と「発明派」の2つの立場に分かれている、というのが本書の前提となるスタンスだ。そして、それぞれの派閥の主張が、時代と共にどのように変化していったのかを追うのが、本書の構成である。

ここで余談だが、私は以前、日本の数学者にインタビューする機会があった。その際、「数学には、発見派と発明派がいるんですよね?」と問うと、「そんな議論は存在しない」と一蹴されたことがある。少なくともその数学者の周りは「発明派」しかいないという。

ただこれは、日本人であることが関係しているのかもしれない、とも思う。というのも、「発見派」の発想は、どうしても「神」に行き着くからだ。まさに本書のタイトルの通りである。

「神が数学者だった」のであり、神が作り上げた数学を人間が「発見」している、というのが「発見派」の大雑把なイメージだと言っていい。だからこそ、欧米の数学者であればあるほど「発見派」が出てくる可能性があるのではないかと思う。

さてでは、それぞれの派閥がどんな主張をしているのかざっと見ていこう。

「発見派」は、数学という学問があまりにも様々な領域に関わっていることを指摘する。本書ではそのことが「数学の偏在性と全能性」という言葉で表現されている。

例えば金融の世界には、オプション価格を決定する理論で用いられる「ブラック・ショールズ方程式」と呼ばれるものがある。これは実は、物理学の「ブラウン運動」という現象を記述する方程式がベースになっている。金融と物理というまったく異なる領域の事柄が、同じ発想の方程式で記述できてしまうということだ。

このような驚異的な応用力を目の当たりにすると、「神が数学を生み出し、この世界を構築したのだ」と考えたくもなるだろう。

「発見派」は、「『数学』というものが実在する」と考えているようで(この主張はなかなかイメージできないだろうが)、このスタンスを「プラトン主義」と呼ぶ。異なる領域によって数学で繋がる実例には確かに驚かされるが、しかし「『数学』が実在する」という考え方にも問題がある。

一方、「発明派」の主張は要するに、「数学は人間が作ったものだ」ということになる。数学においては「無矛盾性」という概念が重要なのだが、相互に矛盾しないような規則を定めた上で人間が数学を作り出しているだけだ、というのが「発明派」の主張であり、この立場を「形式主義」と呼ぶ。

「形式主義」では、「『数学』は実在する」という「プラトン主義」とは対極に、「実在するものとの関連など不要だ」と考える。数学というのはあくまでもゲームのルールのようなものでしかなく、現実の何かと対応するかどうかなど関係ないのだ、と。

しかしこの「発明派」の主張ではやはり、どうして数学が異なる領域をまたぐ記述できてしまうのかを説明することは難しくなる。

本書では、このような「思考の対立」が存在することを前提にした上で、数学史において「数学の捉えられ方」がどう変化していったのかを描き出していく。

ピタゴラス・デカルト・ニュートンら「発見派」の歴史

元々数学は「発見するもの」と考えられていた。この主張を明確な形で行ったのが「ピタゴラス学派」だ。「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスだが、これは彼一人の功績ではなく、「ピタゴラス学派」という数学を研究する集団の成果だと考えられており、ここが当時の数学研究を先導していた。この学派は、

数とは、天界から人間の道徳まで、万物に宿る生きた実体であり、普遍的な原理であった

と捉えていた。数が実在するという、まさに「発見派」の立場である。「ピタゴラス学派」は、現代では「ある種の宗教的な存在」だったと捉えられているようだ。

こんな有名な逸話がある。「ピタゴラス学派」は、「すべての数は、整数の比(分数)で表すことができる」と考えており(これは一種の教義のようなものだった)、「分数では表現できない数(無理数)は存在しない」と主張していた。しかし、まさに「ピタゴラスの定理」を使って、ピタゴラスの弟子が「√2」という無理数を発見してしまったのだ。ピタゴラスは驚き、この発見を封印するためにその弟子を殺した、と伝えられている。

ともかく、「ピタゴラス学派」は、探検家のように真理や定理を「発見」するのだと考えており、このような思想はその後、プラトンやアルキメデスらによってさらに高められていく。

さてその後、数学は科学と結び付けられる。

科学哲学者のアレクサンドル・コイレ(1892~1964)はかつて、ガリレオが科学的思考にもたらした革命は一点に集約されると指摘した。それは、数学が科学の文法だという発見である

ガリレオが、数学は科学を記述するためのものだと考え、さらにその後、デカルトが革命的な発想を持ち込む。数学の授業で必ず出てくる、x軸、y軸で表す「デカルト座標系」を生み出したのである。このように数学の捉え方や記述法が整えられることで科学と協力に結びついていくのだが、さらにそれを強く推し進めたのがニュートンだ。

ニュートンは4%程度もばらつきのある観測や実験から、100万分の1の精度を上回る重力法則を築き上げた。彼は史上初めて、自然現象の説明と観測結果の持つ予測能力を統合したのである。物理学と数学は永久に結び付き、科学と哲学の分離は避けられなくなった

こうして数学は、世界を正しく理解するための手段としての地位を確立していくことになる。

そんなニュートンは、デカルトが記した『幾何学』という書物に強く影響を受けた。そして当時の数学では、「幾何学」という分野(算数や数学でいう図形問題のようなイメージ)こそが最も有用性が高く、世界を記述するための法則であり、神が創造した永久不変の真理だとされていたのだ。

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