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なぜ「想像力の無さ」が「コミュ力」と呼ばれるのか?:「隠れネガティブ」的コミュニケーション能力

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はじめに

ブログ「ルシルナ」を運営している犀川後藤です。本書では、「コミュ力」について書きました。ただ、一般的な「コミュ力本」とは、内容も対象とする読者もかなり違う作品なので、少し長くはなりますが、【まえがき】でその辺りのことについて詳しく触れておきたいと思います。

さてまずは、「犀川後藤という男は、『コミュ力』を語るのに相応しい人物なのか?」について触れておく必要があるでしょう。

率直に言って私は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」ではありません。友達が多いわけではないし、ワイワイを盛り上がっているところにはなるべく近づきたくないし、いわゆる「コミュ力が高い人」は苦手です。私のことをあまりよく知らない人には、むしろ「コミュ障」側の人間に見えたりもするかもしれません。

しかし一方で、親しくしている人からは、「コミュ力が異常」と言われることもあります。そして、私のことを「コミュ力が異常」と感じてくれる人はほとんど、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」を苦手にしていることが多いのです。

「コミュ力」に関する本を読むと、例えば「笑顔で接しましょう」「相手の名前を覚えましょう」「良いところを褒めましょう」みたいなことが書いてあったりします。確かに、そのような振る舞いを「好意的」に受け取れる人もいるでしょう。しかし、私の周りにいる人たちはよく、「いつも笑ってる人って何考えてるかわかんない」「店員さんに存在を記憶されたらその店にはもう行きたくない」「どうして私なんかのことを褒めてくれるんだろう」みたいに感じています。先程挙げたような行為が、全然プラスに働いていないというわけです。理解できるでしょうか?

そして私は、そのような「一般的に良いとされる振る舞い」を苦手だと感じる人から、「コミュ力が異常」と言ってもらえるというわけです。この話だけでも、「『一般的に言われるコミュ力』は決して万能ではない」ことが理解してもらえるでしょう。

私自身も、「一般的に良いとされる振る舞い」を苦手に感じてしまいます。だからこそ、同じタイプの人が何を嫌だと感じるのかが分かるし、そのような振る舞いをしない形で関われているはずだと思っているのです。そういう意味で私は、「『コミュ力』を語るのに相応しい」と言っていいのではないかと考えています。

さて、私の周りにいるのは、大体「ネガティブな人」ばかりです。ネガティブだからこそ、「笑顔で接しましょう」「相手の名前を覚えましょう」「良いところを褒めましょう」みたいな「一般的に良いとされる振る舞い」に強く違和感を覚えてしまうことになります。「そのような振る舞いが『上っ面』に感じられ、相手に対する関心を抱けなくなってしまう」と口にする人もいるほどです。

しかし一方で、「『ネガティブ』だとは思われていない」という特徴も持っています。私はほとんど「女友達」しかおらず、しかも10歳以上年下であることが多いのですが、私が接するそのような20代女性は大体、「見た感じまったくネガティブっぽくないのに、話してみるとネガティブでしかない」という人ばかりなのです。

このような人のことを本書では「隠れネガティブ」と呼ぼうと思います。そして、「皆さんが想像する以上に『隠れネガティブ』はたくさんいる」と断言しておきましょう。特に若い世代には「隠れネガティブ」が多いという印象が強いです。

私の周りの「隠れネガティブ」は大体、見た目や接し方などを含め、「リア充側として人生無双できそう」と感じるような雰囲気を持っています。実際に普段の振る舞いも明るく楽しそうなのですが、しかし話を聞いてみると「根っからのネガティブ」であることが分かってくるという感じです。

「自分もそうだ」という方には分かってもらえると思いますが、「隠れネガティブ」は「『ネガティブさ』を表に出すこと」を、「周りの空気を悪くする『良くない行為』」だと認識しています。なので、「ネガティブである」と悟られないように頑張っているのです。当然、「ポジティブな人だ」と感じた相手に対して、自身の「ネガティブさ」を見せることはありません。「明るく元気な雰囲気」を崩すことは恐らくないでしょう。同じような「ネガティブさ」を内に秘めている人でなければ、その本性が見えてこないというわけです。

となれば、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」は特に、「隠れネガティブ」の存在に気づけないと思います。もし「自分の周りには『隠れネガティブ』なんていない」と考えているなら、その認識は大いに間違っていると言えるでしょう。あなたの周りにもきっと「隠れネガティブ」はいると思います。そして、あなたが「隠れネガティブ」に気づいていないのであれば、あなたの「コミュニケーション」が間違いなく、「隠れネガティブ」に負担を与えたり傷つけたりしているはずです。

さて私はというと、「『隠れネガティブと接するためのコミュ力』が異常に高い」と自覚しています。ここ20年ぐらい、「隠れネガティブ」とばかり関わってきたので、その経験値はかなり高いと言っていいでしょう。

そして、そんな経験を踏まえて「隠れネガティブ的コミュ力」について書いたのが本書というわけです。

「隠れネガティブ的コミュ力」には2つの意味があります。1つはイメージ通りだと思いますが、「『隠れネガティブ』と接するためのコミュ力」です。そしてもう1つ、「『隠れネガティブ』との関わり方から『コミュ力』を考え直す」という意味も込めています。

私は、一般的に言われている「コミュ力に関するアドバイス」に、違和感を覚えてしまうことが多いです。それは決して、「『隠れネガティブ』には通用しないから」ではありません。「『想像力』が欠如している」と感じるからです。

「コミュ力の本質」は「想像力」なのだと私は捉えています。相手が「何をしてほしい」「何をしてほしくない」と思っているのか、「何が嬉しい」「何が辛い」と感じるのかなど、「相手の受け取り方を想像すること」こそが「コミュ力」の最も重要なポイントだと考えているというわけです。

一般的に言われる「コミュ力に関するアドバイス」を雑に要約するなら、「○○の時には△△しましょう」みたいな感じになるだろうと思います。そして私には、このような捉え方は「『想像力』を放棄している」と感じられてしまうのです。同じ人間でも、いつどこでどんな状態にあるのかによって受け取り方・感じ方は異なるはずだし、別の人なら当然もっと違いは大きくなるでしょう。それなのに、「大雑把な括り」で振る舞いや性格を捉えて、「こういう時はこんな風にすれば大丈夫」などとアドバイスするのは、「あまりに『想像力』が欠如している」と感じられてしまうのです。

私は本書で、「『隠れネガティブ』には、こういう振る舞いを”しない”方がいい」みたいな話を多く書きました。もちろんこれは、「アドバイス」としては不十分だと理解しています。「じゃあどうすればいいんだよ」に答えていないからです。しかし、ここまで書いてきた通り、私はコミュニケーションに関して「想像力」が何よりも大事だと考えています。つまり、「『どう振る舞うべきか』は、その時のあらゆる状況を踏まえた上で、『想像力』を発揮して自分で決めるしかない」というのが私の基本的な主張というわけです。

このように私は、「『隠れネガティブ』との関わり方」について示唆することで、同時に、「『コミュ力』ってそもそも何なんだっけ?」と問いかけたいと考えています。さらに、「コミュ力」について考え直してもらえるならなお素晴らしいでしょう。「『隠れネガティブ』との接し方講座」と「『コミュ力』の再考」を同時に行おうというのが本書の目的というわけです。

さらに言えば、私は「『ネガティブな人』の方がコミュ力が高い」とも考えています。というのも、「ネガティブな人」の方が明らかに「想像力が高い」からです。というか、「『想像力が高い』からこそ『ネガティブ』になってしまう」と捉えるべきかもしれません。

「ネガティブな人」ほど、「こんなことを言ったら相手を傷つけてしまうかもしれない」「誰か1人にこういう振る舞いをしたら、周りの人からこんな風に思われてしまうかもしれない」「良かれと思っての行動でも、相手は悪く受け取るかもしれない」など、様々な「可能性」を思い浮かべてしまいます。「ポジティブな人」からしたら、「考え過ぎ!」と一笑するようなことかもしれません。しかし一方で、「考え過ぎてしまう」というのは、裏を返せば「想像力が高い」ことの現れでもあると言えるでしょう。そして私は、様々な可能性を思い浮かべられる能力は、そのまま「コミュ力」に直結すると考えているのです。

逆に、「考え過ぎ!」と笑って受け流すような人に対して、私は「想像力の無さ」を感じてしまいます。そして、そういう人の振る舞いに対してはやはり、「違和感」を覚えてしまうことが多いのです。

当たり前ですが、私は別に「ネガティブになれ」などと言いたいのではありません。ただ、「ポジティブな自分は、対人関係における『想像力』が少し低いのかもしれない」と「想像」してみてほしいと考えているのです。

本書の主張は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」の人には、理解不能かもしれません。ただ、私の周りの「隠れネガティブ」はきっと本書の内容に共感してくれると思うし、世の中にも同じように感じる方が恐らくたくさんいるはずです。実際、この【まえがき】の文章を何人かの「隠れネガティブ」に読んでもらったのですが、「凄く共感できる」という反応をもらえました。同じような感覚を持つ方は、恐らく世の中に結構いるでしょう。

なかなか想像しにくいかもしれませんが、「このような世界線も存在するんだなぁ」ぐらいに受け取ってもらえればと思います。そして、本書の内容を踏まえた上で、コミュニケーションにおいて「想像力」を発揮してもらえたら嬉しい限りです。

「隠れネガティブ」と「コミュ力」について

「隠れネガティブ」ってどんな人?

まずは、15歳ぐらい年下の友人女性の話から始めましょう。

彼女は、傍目には「どう見ても『リア充』としか思えない」みたいな雰囲気を醸し出しています。本人も、そんな風に見られがちなことを理解していて、「普段は意識して『リア充』側に寄せている」と言っていました。その方が、何かと生きやすいことが多いのでしょう。だから、「ワイワイ盛り上がることを『楽しい』と感じる人たち」の中にもナチュラルに混ざれるというわけです。

私も彼女と話している時、ついうっかり「ポジティブな人」というイメージで捉えてしまっていたことが何度もありました。会話の中で、「どうしてそんな思考になるのだろう?」と疑問に感じたことがあったので聞いてみたところ、彼女が「ネガティブなんで」と返したことがあります。それでようやく私は、「そういえばネガティブだった」と思い出したみたいなこともありました。彼女が「ネガティブな人」だと理解している私でも意識していないと忘れてしまうほど、普段の振る舞いからは「ネガティブさ」がまったく見えてこないのです。

ただやはり、会話の端々から「ネガティブさを抱えている」ことが伝わってきます。例えば彼女は、割と日常的に関わる相手に対しても、「会ったらどんな話をしようか」とあらかじめシミュレーションしてしまうのだそうです。「会話が上手く展開しなかったり、沈黙してしまったらマズい」と考えてしまうからでしょう。そう感じずに済む相手はとても少ないと言っていました。本当に、見た目の雰囲気からはまったく想像できません。

「隠れネガティブ」とかなり関わってきた私にとっても、彼女は「『隠れネガティブ』の極み」みたいな人で、相当特殊だと言えます。ここまで見事に「ネガティブさ」をかき消せる人はなかなかいません。しかし、彼女ほどではないにせよ、このようなタイプの人は結構います。自己肯定感が低く、しかし「『自己肯定感が低いこと』を表に出すべきではない」と考えてしまうため、「まるで『自己肯定感が高い』かのように擬態する」みたいな生き方をしている人は案外いるというわけです。

本書では、「隠れネガティブ」を厳密に定義するつもりはありません。私は、自分が関わってきた人のことしか知りませんし、私がまだ出会っていないような「隠れネガティブ」も世の中にはたくさんいるはずだからです。なので、「どんな特徴があるのか」みたいな要素を羅列するつもりはないのですが、私が出会ってきたのがどんな人たちなのかについては少し触れておこうと思います。

割と共通しているのが、「『今この場で、自分はどのような振る舞いをすべきだろうか』と考えてしまう」ということでしょう。「その場その場において『求められている自分』を見極め、出来るだけそれに見合うように振る舞わなければならない」と考えているというわけです。「『ネガティブさ』を隠す」という意識も、そのようなスタンスからきています。一般的に「『ネガティブさ』を出すこと」が求められるような状況はほとんどないので、結局「自分の『素』を出すわけにはいかない」と考えてしまうことになるのです。

また同じような理由から、「私は今ここにいてもいいのだろうか?」という感覚になることも多いと言えるでしょう。「『求められている役割』を全うできていないのではないか」と感じ、「この場には相応しくないかもしれない」と考えてしまうのです。しかし一方で、「集団の中で1人で孤立するような振る舞い」も「場を乱す行為」に思えてしまうため、「ぼっちになるのも良くない」という判断になります。「ぼっちが嫌」なのではなく、「ぼっちになると周りに気を遣わせてしまう」という理由で「ぼっち」を回避しようとするというわけです。

そういう意味で、「自分が迷惑を被る」よりも、「自分のせいで誰かが迷惑を被る」ことの方がより苦痛に感じられてしまう人が多いのではないかと思います。「『加害者』になるくらいなら、まだ『被害者』でいる方がマシ」という発想です。人によっては、「明るく振る舞うのはしんどいけど、それでこの場が丸く収まるならその方がいい」と考えて、自身の「ネガティブさ」を隠しているなんてこともあるでしょう。

このような理由から、「隠れネガティブ」は「明るくて楽しい人」みたいな振る舞いをしてしまいます。そして、そういう振る舞いをすればする程、「○○さんは明るくて楽しい人だ」という見られ方が固定化し、一層「その『見られ方』に自分の振る舞いを合わせなければならない」と感じてしまうことになるのです。「悪循環」でしかありません。しかし、自力ではその状況から抜け出せないし、周囲の人もまさかそんな辛さを抱えているなんて思いもしないので、ずっとその状況が変わらないままになってしまうのです。

こんな風に説明されれば、「『一般的に良いとされている振る舞い』が『隠れネガティブ』にとっては負担になる」という話が理解しやすくもなるでしょう。

私が出会ってきた「隠れネガティブ」はこのようなタイプの人が多かったですし、私自身もそのような要素を少しは持っています。私は割と早い段階で、「『自分はネガティブである』という表明をして他者と関わる」方向に振り切ったので「隠れ」ではないのですが、「隠れネガティブ」の気持ちはよく分かるつもりです。

さてあなたは、このような人の存在を想定したことがあるでしょうか? 「そんな人がいるなんて想像したこともない」という方は、恐らくですが、あなたの周囲にいる「隠れネガティブ」に何らかの形で負担を強いているだろうと思います。あなたが、「一般的に良いとされている振る舞い」をすればするほど、「隠れネガティブ」はしんどさを感じる可能性が高いからです。

「『隠れネガティブ』なんか自分の周りにはいない」とか「いるとしても関わるつもりはない」みたいに思う人もいるでしょうし、それ自体は仕方ないと感じます。ただ私は、「自分が無意識の内に『正しい』と信じているコミュニケーションが、実は誰かを傷つけているかもしれない」という可能性について少し考えてみてほしいと思っているのです。さらに、「『コミュニケーション』というのは、『その場その場で想像力をフルに発揮する行為』である」という考えが、もう少し当然のように語られるような社会になってほしいとも願っています。

「コミュ力」とは「想像力」のことである

以前、当時20代後半だった友人女性から、「ノーメイクで会社に行ったら、『体調が悪いのか』と心配されたのが凄く嫌だった」という話を聞いたことがあります。

私は、女性を見ても「化粧をしているかどうか」がちゃんとは分からないのですが、その友人女性は、「普段からあまりメイクをしない」と言っていました。ただ恐らくその日は、まったくしていなかったのだと思います。そして、ノーメイクだったことで普段よりも顔が青白く見えたのか、「体調が悪いのでは」と心配されたというわけです。ちなみに、そう心配してくれたのは女性の上司だったと記憶しています。

友人女性はその時のことについて、「体調を心配してくれていることはもちろん分かるし、それ自体はありがたいけど、『社会人なのにメイクをしていない』と暗に批判されているのではないかとも感じてしまって嫌だった」と言っていました。

さて、この話、あなたはどう感じるでしょうか?

一般的に、「相手の体調を心配すること」は「良いこと」とされているでしょうし、それが出来る人は「コミュ力が高い」と判断されるはずです。しかしこのケースでは、「『体調を心配された側』が不快感を覚える」という結果に終わっています。つまり、「『行為』だけ見たら正解なのかもしれないけど、全体としては不正解だった」というわけです。

「『行為』としては『良いこと』をしているのだから、それで十分なのではないか?」と感じる人もいるでしょう。しかし私はまったくそうは思いません。というのもコミュニケーションにおいては、「『あなたは相手からどのように見られており、そのあなたがその行為を行うことで、相手がどう受け取る可能性があるか』を常に想像すること」こそが何よりも大事だと考えているからです。私が思う「コミュ力の高さ」は、この1点に尽きると言っていいでしょう。

例えば、「女性に『生理』の話を聞くこと」を「難しい」と感じる男性は多いと思います。私も、基本的にはそういう認識です。ただ私の場合、会話をしている中で、女性の方から当たり前のように「生理」の話が出てくることがあります。それはつまり、「『犀川後藤には生理の話をしても大丈夫』という認識が相手の中にある」ことを意味するはずです。なので、そういう相手に対しては、私の方から「生理」について聞いたりすることもあります。

「『生理』について聞く」というのは、「行為」としては恐らく「あまり良くないこと」と判断されるはずです。ただ、仮に私の振る舞いが「セーフ」なのだとすれば、結局のところ「行為そのもの」の問題ではないと言えるだろうと思います。正しく「想像力」が発揮されていれば、「良くないとされる行為」も問題では無くなるというわけです。

「セクハラ」について男性は一般的に、「女性が『嫌だ』と感じたら、それが『セクハラ』ってことになっちゃうんだから、何をしちゃいけないかなんて分かるわけがない」みたいな認識を持っていると思います。これは要するに、「『行為の良し悪し』で決まるわけじゃないならお手上げだ」という主張でしょう。そして、「セクハラ」に限りませんが、私はこの点、つまり「『行為の良し悪し』でしか判断しない」という感覚にこそ、コミュニケーションにおける最大の問題があると考えているのです。

確かに、「マニュアル」や「アドバイス」などは、「客観的に判断可能なもの」をベースにしなければ共有するのが難しくなります。なので、コミュ力に関する主張が「行為の良し悪し」の話になってしまうのは仕方ないとも言えるでしょう。

しかし、「『行為』が良ければいい、『行為』が悪ければ悪い」という判断には、「想像力」が発揮される余地がまったくありません。なので私はどうしても、「コミュニケーションを『行為の良し悪し』で判断するすべての主張」に違和感を覚えてしまうのです。まずは、「『行為によってコミュニケーションの良し悪しが決まる』という判断は正しくない」と認識する必要があるでしょう。むしろ、そう認識することこそが「コミュニケーションのスタートライン」なのではないかとさえ考えているのです。

かつて、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」と周囲のスタッフに話しかける上司がいました。近くで見ていた感覚として、その上司に「悪気がない」ことは明らかです。間違いなく、「相手の心配をしている」「積極的にコミュニケーションを取ろうとしている」というポジティブな気持ちからの行動だったと言っていいでしょう。

しかし一方で、その上司とは1回り以上年の離れたスタッフたちから話を聞いてみると、「『俺の前ではいつも元気でいろよ』と言われてるみたいで嫌」だと感じている人が結構いたのです。私も、そのような感覚はとてもよく理解できます。上司の行動は、意図したのとはまったく逆の受け取られ方になってしまったというわけです。

さてそれでは、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」と声を掛けられたスタッフは、その後どう振る舞うようになるでしょうか? 当然、「しんどい時でも無理して元気なフリをする」ことになります。それはもちろん、「自分が不快な気分にならないため」でもありますが、「『あれ? 今日なんか元気ないじゃん』と心配してもらうのは申し訳ない」と感じてしまうからでもあるのです。

この場合も、「あれ? 今日なんか元気ないじゃん」と声を掛けることは、「『行為』としては正しい」と判断されるのが普通でしょう。しかし結果としては、そう声を掛けられた方が負担に感じてしまっているというわけです。

一般的に、「誰とでも仲良くなれる人」は「コミュ力が高い」と判断されるだろうと思います。しかし私は、「誰とでも仲良くなれる」のは単に、「相手が発している『NO』に気づけないだけ」ではないかと感じてしまうのです。「相手の『NO』に気づける人」はむしろ、「NO」を発する人に近づかなかったり、近づくにしても慎重にするだろうと思います。それは「誰とでも仲良くなれる」とは逆の振る舞いと言えるでしょう。そして、どう考えてもその方が「コミュ力が高い」ように思えてしまいます。

つまり私は、「一般的に『コミュ力が高い』と言われるタイプ」は、ただ「想像力が低いだけ」なのではないかと考えているというわけです。

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