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【人類学】少数民族・ムラブリ族に潜入した映画『森のムラブリ』は、私たちの「当たり前」を鮮やかに壊す

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文化人類学的にメチャクチャ興味深い、少数民族・ムラブリ族に密着するドキュメンタリー映画『森のムラブリ』

非常に興味深い映画だった。そして映画だけではなく、『森のムラブリ』の監督と社会学者・宮台真司による上映後のトークイベントで語られた話も面白い。宮台真司は、「こんな人類学的ドキュメンタリーは観たことがない」と語っていた。宮台真司はかなり広範な知識を持っている人だと思っているのだが、そんな人でも触れたことがない世界が描かれているというわけだ。この点だけでもかなり興味深い作品と言っていいのではないかと思う。

映画『森のムラブリ』が制作されるに至った凄まじい経緯

トークイベントでは、映画『森のムラブリ』制作のきっかけとなる出来事について言及されていたが、それはなんとも凄い話だった。

監督の金子遊は元々、ベルナツィークという民俗学者が書いた『黄色い葉の精霊』という本を読み、ムラブリ族に関心を抱いたのだという。映像作家たるもの、興味を持ったらカメラを持って現地に行くものだ。というわけで彼はムラブリ族が住んでいるというインドネシア奥地へと向かった。

金子遊は何の情報も持たずに現地入りしたわけだが、インドネシアでムラブリ族に接触しようと働きかけていたところ、たまたまそこで日本人の人類学者と出会ったそうだ。伊藤雄馬というその人類学者(言語学者)は、ムラブリ族の居住区域に住み込んで究を行っていた。6ヶ国語を操り、日本語の次に得意なのがムラブリ語という、なかなかの人物である。タイ北部フワイヤク村にあるムラブリ族のコミュニティに入り込み、「ムラブリ語の方言の差異」というかなりマニアックな研究を行っていた。ホントに、世界には色んな人がいるものだなと思う。

ムラブリ族を撮ろうとやってきた金子遊は、たまたま伊藤雄馬と出会い、さらに彼から、「タイのムラブリ族は、ラオスにいるムラブリ族を恐れている」という話を耳にした。そんな面白い話があるなら映画にしようじゃないかと、出会ってたった1日で企画がまとまり、この映画の制作が決まったそうだ。

この時点ではまだ、ラオスのムラブリ族については噂があるのみで、まだその存在が確定していたわけではなかった。ムラブリ族は狩猟採集民族であり、基本的には定住しない(タイのムラブリ族は定住生活を行っているが、これは例外だ)。常に森の中を移動しており、どこにいるかはっきりとは分からないのである。だからラオスのムラブリ族とは会えなくてもおかしくなかった。しかし、ラオス入りした金子遊と伊藤雄馬は、奇跡的にも森を移動するムラブリ族を発見できたのである。そんな行き当たりばったりの状況で、この映画は作られたというわけだ。ちなみにラオスのムラブリ族は、15名程度しかいないという。凄い偶然だろう。

ちなみに、先述したベルナツィークが1936年頃に初めてムラブリ族を発見したのだが、長らくその存在は忘れ去られており、その後80年代にタイで”再発見”されたのだそうだ。そして、かねてより噂だけはあったラオスのムラブリ族に世界で初めて接触し、カメラに収めたのが金子遊と伊藤雄馬なのである。人類学的にもかなり貴重な資料と言ってもいいのではないかと思う。

この辺りの制作過程も含めて、非常に興味深い作品だと感じた。

ムラブリ族にタダで米をあげるオバサン

映画では様々な描写がなされるのだが、私が最も関心を抱いたのは、ラオスのムラブリ族にタダで米をあげるオバサンの存在だ。

先程触れた通り、ラオスのムラブリ族は森の奥で生活している。しかし、「森の奥で生活する少数民族」と聞いてイメージするような雰囲気ではない。どうしても私たちは、「裸に近い格好で、槍のようなものを持っている」みたいなイメージを抱いてしまうが、ラオスのムラブリ族は洋服を着て、ペットボトルやビニール袋に水や食料を入れて運び、鉄製の鍋で食事を作っている。なんならスマホを持っている若者も、イヤホンで音楽を聞いている者もいたりするのだ。

仲間が15名程度しかいない森の奥で生活する少数民族なのに、どうしてそんな生活ができるのか。それは、森を下りたところにある村とやり取りがあるからだ。

しかし、ムラブリ族とこの村との関係は、資本主義の世界に生きる私たちにはなかなか理解できないものがある。実に奇妙なものなのだ。

ムラブリ族の中には、作ったモノをこの村に売りに来る者もいる。物々交換というわけだ。これは私たちにも分かりやすい。しかし中には、何かと交換するわけでもなく、何かを手伝うわけでもなく、当然金銭で支払いをするわけでもないのに、そのまま米を持っていくだけの者もいる。米をタダであげているオバサンの方も、それが当然かのように振る舞う。

人類学者・伊藤雄馬もこの状況を不思議に思い、「どうして彼らの面倒を見るの?」とオバサンに聞いてみるのだが、これと言った返答が返ってこない。トークイベントで伊藤雄馬は、「何度か同じ質問をしてみたが、『それは当たり前のことだ』『持っている方が持っていない方にあげるのは当然』みたいな返答でよく分からなかった」と語っていた。

この点について宮台真司は、「個人所有という概念が無いのではないか」と指摘する。確かにそう捉えればスッキリするが、しかし「個人所有という概念がない」という状況は、私たちにはなかなか馴染めるものではない。

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