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ベートーヴェンの「有名なエピソード」をほぼ一人で捏造・創作した天才プロデューサーの実像:『ベートーヴェン捏造』(かげはら史帆)

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ベートーヴェンの「超有名エピソード」のほとんどを創作したとされる天才プロデューサーの実像

かの有名な「運命」に関するエピソード

クラシック音楽を聴かない人でも間違いなく知っているだろう、「ジャジャジャジャーン」という印象的な出だし。「運命」という名前で知られる曲だ。この曲について本書に、こんな文章がある。

世の中では大河的なベートーヴェン像が主流で、専門家やオタクはさておくとして、一般人はみな『交響曲第五番』を「運命」と呼び続けているじゃないか

意味が分かるだろうか? 実は「運命」という曲名は、ベートーヴェン本人による命名ではないと考えられているそうなのだ。

では何故この『交響曲第五番』は「運命」と呼ばれているのか。そこにはこんな理由がある。「ジャジャジャジャーンというモチーフ」について、『ベートーヴェン伝』という本に、「『このように運命が扉を叩くのだ』とベートーヴェン自身が語った」というエピソードが書かれているのだ。この記述を元に、「『運命』はベートーヴェンの命名」と考えられてきたわけである。

そしてこの『ベートーヴェン伝』を書いた人物こそ、本書の主人公だ。アントン・フェリックス・シンドラーは、ベートーヴェンを伝説的な存在にまで引き上げることに成功した、天才的な“嘘つき”プロデューサーなのである。

本書は小説仕立てでシンドラーの生涯を追う作品である。まったく知らなかった話が満載で、非常に興味深く読んだ。

本書を読めば、ベートーヴェンに関するありとあらゆるエピソードが、実はシンドラーによる創作だったと理解できるだろう。

シンドラーが注目した「会話帳」

さて、この作品に関して理解しておくべき重要な要素がある。それは「会話帳」と呼ばれるものだ。

ベートーヴェンはよく知られている通り、耳が聞こえなかったので、「ベートーヴェンは言葉を発し、相手は紙に書く」というスタイルで会話が行われた。この「ベートーヴェンとの会話が書き込まれた紙」が「会話帳」である。

そして、この「会話帳」に誰よりも早く目をつけ、これを利用することでベートーヴェンを神格化させることに成功したのがシンドラーであり、さらに彼自身の名声をも高めようと試みたのだ。本書はその知られざる歴史を紐解く作品である。

現在では、この「会話帳」は非常に重要な資料として認識されているが、それは次のような理由からだ。

「<会話帳>の最大の価値は、そこに書き留められた日々の苦労、ゴシップ、悪意やユーモアなど、些末なことにあるように思われる」――音楽研究者ニコラス・マーストンはそう言った。衣食住から人間関係のごたごたまで、くだけた会話帳で記録されているさまはまるで二百年前のSNSだ

「二百年前のSNS」という表現は非常に分かりやすいだろう。確かにこのような「当時の風俗」を伝えるという意味で価値があるという説明は理解しやすい。もちろん「ベートーヴェン研究」という意味でも重要なのだが、この点については”シンドラーのせい”で疑問符がつきまとうことになってしまった。その理由は後述しよう。

一方ベートーヴェンの死後しばらくの間、この「会話帳」の価値に気づく者はほとんどいなかった。確かに一面的な見方をすれば、それも正しい。何故なら、

ベルリンの識者の中には、会話帳を「文学的珍品」と評した人もいた。はっきりいって皮肉である。どれほど言葉を尽くして説明しても、彼らにはいまいちピンと来ないようだった。だってこれ、ぜんぶベートーヴェンの直筆ならまだしも、ほとんどがそうじゃないんでしょ? 言うほどの価値があるとは思えませんけどねえ?

というわけだ。確かに、ベートーヴェン自身の言葉ではないのだから、その価値を上手く認識できないのも無理はなかっただろう。

しかし、天才プロデューサーであるシンドラーは、その利用価値を十分に理解していた。シンドラーが「会話帳」の価値に気づいた際の内面描写はこんな具合である。

いや……。
ある。あるぞ。手つかずの膨大な資料が。
あの筆談用の「ノート」だ。
誰も思い出しもしまい。それどころか、保管されている事実すら知るまい。そもそも、あれに価値があると思ってはいまい。ベートーヴェン本人のセリフがたくさんあるならまだしも、ほとんどが、ベートーヴェンの取り巻きどもの雑多な書き込みにすぎないのだから。
わかっているのは、おそらく自分だけだ。あのノートが、捨てられずにほとんどすべて残っていることを。ベートーヴェンの言葉が存在しないという欠点こそあれど、彼の人生をたどる上で、ある程度の状況証拠として使いようがあることを

彼が「使いよう」と表現しているように、まさにシンドラーはこの「会話帳」を利用した。もっと言えば「改ざん」したのだ。この事実が発覚したことで、ベートーヴェン研究における「会話帳」の価値には疑問符がつくことになる。

その嘘は、1977年に明らかになった。

「会話帳の改ざん」という衝撃の研究発表

1977年、ベートーヴェン没後150年というアニバーサリー・イヤーに衝撃の研究が報告された。東ベルリンで開催された「国際ベートーヴェン学会」において、「ドイツ国立図書館版・会話帳チーム」のメンバー2人が、音楽界に激震を与えるある発表を行ったのだ。それは、

われわれが編纂している会話帳のなかに、ベートーヴェンの死後、故意に言葉が書き足されている形跡を発見した、と。

というものだった。

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