見出し画像

【感想】リドリー・スコット監督の映画『最後の決闘裁判』から、社会が”幻想”を共有する背景とその悲劇を知る

完全版はこちらからご覧いただけます

「私たちはどんな『幻想』の中で生きているのか?」と改めて考えさせられる、実話を基にした物語

この映画の舞台は1386年だそうだ。そんな時代の「実話」がどの程度詳細に記録されているものなのか、私にはよく分からない。それはともあれ、映画『最後の決闘裁判』は、現代を生きる我々にも無視できない問いを投げかける作品である。

「強姦では妊娠しない」という「共同幻想」について

人間が生きていくために社会を形成するということは、そこになんらかの「共同幻想」が生まれるということでもある。

分かりやすいのは「お金」だろう。電子決済が普及した今でも、私たちは硬貨や紙幣を見て、そこに「価値がある」と感じる。しかし、1万円札にしたところで、その実態はペラペラの紙でしかない。そんなものに「価値がある」理由は、社会を構成する私たちが全員「1万円札には『価値がある』」と感じているからにすぎないのだ。

「お金」は私たちの日常生活にあまりに当たり前に存在するものなので、それが「共同幻想」だということすら私たちは忘れている。これはつまり、「無意識レベルで信じている『共同幻想』が社会にたくさん存在すること」を示唆していると言えるだろう。私たちは、そうと意識せずに「驚くような事柄」を全員で信じ込んでいるのかもしれないのだ。江戸時代以前の、「お歯黒の女性は美人」のように。

そして、大昔のフランスを舞台に描かれるこの映画は、「社会通念があまりに異なる時代」を描き出すことによって、「人々が信じる『共同幻想』の違い」を如実に見せつける作品なのである。

例えば、裁判シーンである人物が、こんな主張をする。

強姦では妊娠しない。
これは科学的事実だ。

この発言の背景を説明しながら、当時の「共同幻想」について書いていこう。

映画『最後の決闘裁判』には、主人公が3人いる。騎士のカルージュ、カルージュの親友であり従騎士であるル・グリ、そしてカルージュの妻マルグリットだ。物語では、マルグリットがル・グリに強姦されたと訴え、カルージュがル・グリを訴えるという展開となる。

さて、マルグリットはこの時点で、カルージュと結婚して5年が経過していた。しかし子どもには恵まれない。マルグリットは医師に相談をするのだが、そこで彼女はこんなことを聞かれる。

夫との行為に絶頂を感じるか?

この場面から、この時代の「科学的事実」として、「性行為の際に、女性が絶頂に達することで妊娠に至る」という「共同幻想」が存在したことが分かる。

そしてだからこそ、「強姦では妊娠しない」という主張が成立してしまう。強姦で絶頂を感じることはあり得ないのだから、当然妊娠などするはずがない、というわけだ。

この場面が映画の中で一番驚かされたし、興味深いと感じたポイントだった。「興味深い」と感じたのは、「何故そのような『共同幻想』が生まれたのだろうか?」と考えさせられたからである。

映画の中でそうと語られるわけではないが、観客は恐らく「妊娠に至らなかった原因は夫カルージュの方にある」と感じるはずだ。現代の理屈で考えれば、それしか考えられない。しかし当時は、「男性のせいで妊娠できない」などという考えは受け入れ難かっただろう。当時の常識では、妻のマルグリットは「夫の所有物」という扱いだった。だから「強姦」という事実に対しても、マルグリット本人が訴えを起こせるのではなく、「『妻という財産』に『損害』を被った夫カルージュ」が裁判を起こさなければならないのだ。それぐらい女性の立場が今と比べて圧倒的に低かった時代であり、そんな世の中で「男性のせいで妊娠できない」などという考えが通るはずがないだろう。

しかし、「女性が妊娠しない理由」には何か理屈をつけなければならない。そこで、「女性が絶頂に達していないから」という、女性に責任を押し付ける考えが生まれたのだと私は感じた。そしてその理屈が「強姦では妊娠しない」という考え方にも転嫁されることとなり、マルグリットのような境遇が生まれてしまったというわけだ。

また、この映画の主テーマである「決闘裁判」も、「共同幻想」そのものであると言える。

「決闘裁判」というのは、「決闘の勝敗で裁判の決着をつける」というシステムだ。こう説明をしても意味不明でしかないが、かつてはこのような理屈がまかり通っていた。

カルージュとル・グリが決闘で勝敗を決める裁判は、もちろん、先に説明した「ル・グリの行いは強姦だったか否か」である。つまり、「カルージュが勝てばル・グリは強姦を行ったと裁定され、ル・グリが勝てば彼は強姦をしなかったと裁定される」というわけだ。

意味不明の極みだろう。現在の視点からすれば、当然そういう感想になる。

しかし、当時この考えは正しいものとして受け取られていた。何故なら、「真実を語る者こそ、神が守る」という考え方が存在していたからだ。「闘って負けた者は、神に守られなかった。つまりそれこそ嘘をついていたという証だ」という理屈である。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

2,891字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?