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【奇跡】信念を貫いた男が国の制度を変えた。特別養子縁組を実現させた石巻の産婦人科医の執念:『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』(石井光太)

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「特別養子縁組」は、菊田昇がいなければ実現不可能だった。あらゆる困難をなぎ倒し、信念を貫いた男の壮絶な人生

読んでいる間、大げさではなく、ずっと泣いていた。凄すぎる。とんでもない人物がいたものだと感じたし、自分が彼のことをまったく知らずにいたことにも驚かされた。もっと広く知られていい人物のはずだ。

あらゆる反対を押しのけて、「特別養子縁組」という制度を国に作らせた張本人なのだから。

昇は平成三年四月に、国連の国際生命尊重会議がつくった「世界生命賞」の第一回受賞のマザー・テレサにつづいて、第二回受賞者として選ばれた。受賞理由は胎児を中絶から守り、その人権を訴えつづけたことだった。

国連から、マザー・テレサに匹敵する人物として表彰されているのだ。であれば、私たちはもっと彼について知っているべきではないだろうか。

さて、そんな菊田昇を取り上げた『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』の感想を書く前に、1つ触れておくことがある。それは、本書が「小説」と銘打たれているという点についてだ。「事実を基にした小説」というわけだが、そのような作品の場合、「どの描写を『事実』と捉えるか」という判断が難しい。というわけで一応、この作品における私なりの判断基準に触れておこう。

菊田昇は、1991年に亡くなっている。であれば、本書の著者が彼に直接取材をした可能性はほぼないだろう。ではどのように事実を確認したのか。あくまでも私の想像にすぎないが、こんな感じではないかと思う。まず、存命の関係者には当たれるだけ当たったはずだ。さらに、菊田昇本人の著作や、菊田昇について触れた書籍も片っ端から漁る。新聞記事なども渉猟しただろう。このように、調べられるだけの事実を調べたはずだ。そして、それでもなお埋められずに残った部分については創作で補った、というのが私の捉え方である。

つまり、

・客観的に判断可能、あるいは、第三者が証言可能だろう事柄についてはすべて事実
・内面描写や個人的な会話などについては、創作も含まれる

という理解だ。このような前提で以下、記事を書いていくことにする。

かつて医師は、「中絶手術の際に息をしてしまう子」を殺していた

現在、中絶が認められるのは妊娠22週未満だが、かつては7ヶ月(28週)まで許容されていたという。7ヶ月ギリギリの中絶でも、ほとんどの場合が死産となる。しかし稀に、生命力の強い子の場合、息をして産声を上げてしまうことがあったそうだ。

さて、このような場合、医師はどうしていたのだろうか。

子どもが産まれたのだから、原則として出生届を出す必要がある。しかし、妊婦は中絶を望んでいるのだからそれは不可能だ。今でも同じかもしれないが、以前は特に、「戸籍に出産の記録が残ること」だけは絶対に避けたいと考えられていた。だから「出生届を出す」という選択肢を妊婦やその家族が受け入れるはずもない。また、7ヶ月の未熟児で産まれてきてしまった場合、どれだけ救命措置を施したところで、当時の技術ではどのみち数日から数週間しか生きられないことがほとんどだった。

だからそのような場合、産まれてきた子を医師が殺していたという。

昇の脳裏に過ったのは、かつて大学病院や市立病院で先輩たちから聞いた話だった。このような場合、開業医は誰にも言わずに赤ん坊の顔に濡れた手拭いを被せたり、浴槽に沈めたりすることで葬り去っているという。医師が密室で子供の息を止め、”中絶”として手続きを済ませば、外部に知られることはない。万が一の場合、開業医にはそれができるからこそ、患者の方も信頼してやってくる。

菊田昇は宮城県石巻で産婦人科医として働いていたが、この状況は決して石巻に限るものではなかった。

後で知ったことだが、これは石巻だけでなく、日本全国の開業医が暗黙の了解のうちに行っていることだった。昭和三十五年には百万件以上の中絶手術が行われているが、そのうちの一定数は七ヶ月のそれであり、少なくない赤ん坊が医師の手によって命を奪われているのだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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