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LURRA˚は、なぜ京都で挑戦するのか。 Vol.1

■まずはじめに

初めまして、LURRA˚の共同オーナーの宮下拓己といいます。

まずLURRA˚とはニュージーランド(以下,NZ)で出会ったJacob Kear,宮下 拓己と堺部 雄介によるレストランプロジェクトです。
「LURRA˚(ルーラ)はバスク語で「地球」、°はその周りを回る月。そして世界にここ以外にはないLURRA°という座標。を意味します」

・2017年、お互いにヘッドシェフ、ヘッドソムリエ、バーマネジメントとしてNZにあるClooneyというレストランで共に働き、Cuisine Good AwardsというNZのレストランアワードで国内最高評価である3ハットを受賞しました。
そして、その先を目指し世界に挑戦したいという次の目標も一緒に描くようになったのです。

その為には日本で、そしてほかではない京都での挑戦を決意しました。その理由をこの2年間を振り返りながら、皆さんにじっくりお話していきます。

◆てんやわんやのポップアップ

2017年 日本に帰国し1月30日、物件探しや日本の食材に触れるために京都、哲学の道にあるMonkで初めてLURRA˚としてポップアップを開催しました。

数日前から京都は大雪で街は真っ白な銀世界。
ポップアップ中はMonkの裏で三人で川の字に寝たことや京都中心部から20分ほど車で走った大原での雪の積もる寒い中での食材調達(車が滑り危機一髪)や、そしてポップアップの当日の朝の哲学の道の綺麗に澄んだ空気をよく覚えています。

ポップアップは12名(6名を2回転)を3日間。
どんなに忙しくても楽しい営業中は一瞬で過ぎていきます。(楽しい実感がないとだらだらと…)
しかし僕達が当時の持てる力を出し切った3日間はアッというまに過ぎました。

慣れないキッチン、お店でのイベントに営業終了後には動けないくらいヘトヘトに。
しかし帰り際のお客さんの笑顔、そして何よりも「楽しかった。」の言葉が何よりのLURRA˚の3人の達成感に繋がりました。
イベント後に3人布団に包まり色んな話をしました。
「もっとOOしたいよね〜」みたいな未来のワクワクする話や「京都でLURRA˚をやる意味」などを。
疲れ果てて重くなっていくまぶたと同時に誰一人、口にしなくても、心の奥でメラメラとLURRA˚をポップアップではなくしっかりと自分たちのお店という形にしようと決意していました。

◆LURRA˚本格始動

まず始めたのは物件探し。
京都の町家(当時は工事がこんなにも大変だとは知る由もなく…)
東山区、左京区(大原へのアクセス)
アクセスのよさ(夜のみの営業のため)

などで探し始めました。(日本、京都である必要性については※後述)
「町家は中々出てこないよ」と言われたのですが、待つこと2ヶ月京都のワインショップ エーテルヴァイン(ethelvine) の江上昌伸さんから面白い物件があるよと連絡をもらい3月に初めて今回オープンする東山の物件を見に行きました。

中に入った途端、僕は「アッここだな!」と直感で思いました。(改装前の当時の写真を見せるとほぼ100%の人は「よくここにしたね…大変そう〜」と口にします。)
ボロボロで3年間空き家だったその物件に何故だか僕は人が楽しそうにしている景色が見えました。(よく本でこんなこと書いてありますが本当にあるんだなーと)


そこからは急いで法人設立。
色々と初めての事ばかりでバタバタしていてこのあたりは記憶が少し飛んでいます。

※当時事業計画書の下書きには↓

※「食」を一つのカルチャーとして捉え、古の歴史や文化・芸術が息づく街「京都」で単にレストラン=食べる場所ということでなく、あらゆるカルチャーが行き交い、人そして感性が集まる空間を創る。五感を使うという点において「食」は特殊な芸術であり、また季節感や地域性、ストーリーなどが混ざり合って生まれる時間は空間体験である。   食べることがいかに人に感動や癒し、幸せを与え、心や身体に影響し、人生を豊かにするか。その体験をLURRA˚で多くの人たちに伝えたい。

と書いてあります。
これは今も変わらない信念です。

サービス側の僕の立場として「美味しかった」だけではなく「楽しかった」と帰り際に一言、言って貰えたら嬉しいなとずっと思っています。
当然、お店として美味しいを目指す事は最低条件。
でも「楽しかった」の一言は、おいしい料理と気持ちのいい空間、お客さんが上手にマッチして初めて生まれるものだと思っています。
LURRA˚でそんな空間を作りたいなと思っています。

LURRA˚は12名のゲストがカウンターで一斉にスタートする事によって生まれるライブ感と 薪火やピザ釜から漏れ見える暖かな火がゲストの席から感じられることを大事にしています。
キッチンにはガスを入れていないので火入れなどは原始的な薪焼きによって調理します。

デザートの際には*iroriに移り、今度は大きなテーブルを12名が囲む事によって生まれる時間の共有。

*irori(囲炉裏)古の日本の家族の風景。本来は囲炉裏を囲んで会話が生まれる場所。LURRAºでは、ただのレストランとしてだけでなく、ゲストが同じ体験を共有し交流の中から生まれるカルチャーを作り出せる場所として考えています。

◆伝統との付き合い方

自然と伝統と革新が調和した空間。
LURRA°では消えゆく伝統工芸や若い作家の作品を積極的に扱っていこうと思っています。
僕自身、家の家業が長く続いた蒔絵師の家でしたが、祖父の代でその歴史は閉じています。
日本にこんなに素晴らしい技術、伝統工芸があるのに使わないなんて勿体無いと思います。観賞用でなく多くの工芸は日常使いの延長にあると思っています。しかし実際に手に取って使える場所は現在少なくなっていってると感じています。
ですので今回もお皿、カトラリーなど国産のもので集めています。

友人の家に遊びに来たような暖かさと楽しさ、安心して寛げる場所づくりにし、ワクワクし好奇心を揺さぶるような体験を提供する空間にします。
ゲストの体験を通して、その先にある日本・京都の食材や季節、文化や伝統が自然に感じていただきたいと思っています。

それがほかではない京都の地で、僕たちでしか生み出すことが出きないLURRAºという空間なのです。

バタバタと銀行手続きやお皿選びやらetc.と忙しく駆け回り、手探りで進めることも多いのですが、僕たちにしかできない空間づくりをするんだ、と。

町家の工事は僕達が想像していたよりもとっても(1000倍以上)大変でした。でも、設計士さんや工務店の方々と打合せを重ね、僕たちの理想が少しずつ形になってきました。そして、現在オープンに向けて、あと一息踏ん張りどころです。当初、オープン時期は3月中でしたが、6月(5月後半〜6月初旬)のオープンが見えて来ました。今、一つ一つ形になり、出き上がっていく姿を見ていると本当に感慨深いものがあります。

もう少しだけ、LURRAºが産声をあげるその日まで時間をください。



LURRA° はじまりの地、京都。北緯35.010079 東経135.78063。 私たちはこの場所から食べることを通じて旅をする。


■どんな3人なの?

◆Jacob Kear(ジェイカブ・キア)

米国カリフォルニアにてアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれました。生後6ヶ月で初めて日本に渡りその後12才まで日本で過ごしました。(ビジュアルからよく日本語上手ですね!とビックリされます。)
少年時代から、長野県野尻湖の湖畔にある祖母の家に帰るたび、祖母と共に山菜狩りに出かけていました。この頃の記憶や体験が僕の料理の根源となっています。
その後米国カリフォルニアのサンホゼに戻り、パサデナのル・コルドン・
ブルーの料理学校を修了。その後カリフォルニア州南部のいくつかのホテルのキッチンで働きました。
ある時、フードネットワークのテレビ番組の世界大会にて優勝を飾ったことがきっかけで、韓国の新しいレストランの目にとまり、24歳にてエグゼクティブシェフとして働くことになりました。結局ビザの関係のためにその仕事は長くは続かなかったのですが…

その後すぐに日本に戻り、東京のマンダリンオリエンタルホテルの38階にあるタパスモレキュラーバーにて3年間働きました。
米国カリフォルニアに帰国後、シェフ、サンユンと共に、2010年にオープンしたレストラン、ルクションのメニューを担当し、次のステップのためにルクションを去った後、デンマークはコペンハーゲンへ赴き*Noma(ノマ)のキッチンに飛び込みました。

*ノーマ(noma)は、デンマーク・コペンハーゲンにあるレストラン。2003年に開店し、レネ・レゼピ(英語版)がシェフ長を務める。店名はデンマーク語の「nordisk」(北欧の)と「mad」(料理)を組み合わせた造語である。その独創性や革新性によって知られている。2010年・2011年・2012年・2014年にはレストラン誌の「世界のベストレストラン50」で第1位に選出された。Wikipediaより引用  

Nomaでの強烈な時間は衝撃を与え大きな影響を受けました。
その後ロサンジェルスに戻りパートナーシェフとして働いた後、セレブリティのプライベートシェフとして働いていました。

ある日Nomaのシェフ レネ・レゼピから一通の連絡を受け、急いで日本に戻りました。
向かった先は前の職場であるマンダリンホテル。
日本でも話題になったNoma 東京のチームの一員として、レネ・レゼピとの再会を果たしました。
丁度、Noma 東京に参加する数ヶ月前に 自分自身が作りたい料理に気付きました。 それは100%の北欧料理ではなく、 自分が育ってきた国や自分自身に日本人の血を引いてる事、 日本で過ごした祖母との時間や思い出、それを料理で伝えたいと思いました。

Noma 東京のチームに呼ばれ出会ったのは、日本の食材やテクニックを使ったしかし既存の日本料理ではない新しいジャンル。
その時に素直に素晴らしいと思いました。
そして「これだ!!!」と衝撃が走ったことを覚えています。
同時に出勤時間が朝の6時スタート。
研修生もマンダリンの規則でダメだったので、その分とても密度の濃い大変な時間でした。 マンダリンのスタッフを何人かお手伝いと入ってくれるだけでも多少助かりました。(毎日届く大量のクルミの薄皮をピンセットで剥いた事、しじみを一つ一つ開けた事など今になれば良い思い出です。)
本店では研修生はだいたい30-40人いて、Noma 東京の時は8人でしたので本当に必死に必死でした。
**Noma 東京で自分のアイデンティティと出会い今の自分がいると思います。
日本で僕が100%の北欧料理をやっても 意味がないと思っています。
日本の食材、季節、テクニックをリスペクトながら自分らしくクリエイションをしていく事で新しい料理が生まれると考えています。
 フュージョンという言葉は自分自身苦手ですが、ある意味では自分自身が日本人と白人の「フュージョン」でもあるので料理もクロスカルチャーで良いと思っています。 

Nomaでの経験は大変でしたが、僕にとって本店、東京、シドニー、メキシコ、全て素晴らしい時間でかけがえのない時間でした。
一つ一つの仕事は細かく、神経がピンとする時間でしたが、素晴らしい事をしていたので、その場にいるだけで僕はニヤニヤしていました。
Nomaは不思議なレストランです。
一度も「疲れたぁ〜〜」だとは思った事がありません。
 多分そこにいる全スタッフがベストを尽くしたいという言う強い思いがあるからだと思います。

Nomaは僕にとっていつまでもNo.1のレストランだと思います。

その後はニュージーランドでClooneyのヘッドシェフに就任しCuisine Good Food Awardsというアワードで 国内最高ランクの評価3ハットを受賞。
そして今回のLURRA˚のプロジェクトのために帰国しました。
その後長年の友人である哲学の道沿いのMonkのオーナーシェフ今井さんに声をかけてもらいMonkで勤務。ここで今回のLURRA˚の心臓であるピザ窯に出会いました。ピザ窯をピザだけではなく野菜、肉などの調理に使うスタイルに感銘を受けLURRA˚にも導入を決めました。
LURRA˚では京都、日本の自然を北欧料理では無くLURRA˚の料理として表現していければと思います。


◆宮下 拓己

https://twitter.com/LURRA19/status/1113995423226552320

*ミシェル・ブラスは、自然から料理を創作する料理人と称され、21世紀のフランス料理界を代表するといわれている、フランス中南部オーブラック(l'Aubrac)地方の、ソムリエナイフで有名なラギオール(Laguiole)村でオーベルジュ(Auberge)「ミシェル・ブラス」を営むシェフ。ミシェル・ブラスは、有名シェフに師事したり、高級レストランで修業したことはなく、両親の経営するオーベルジュ「ルー・マズュック(Lou Mazuc)」の厨房で料理を作る母親に学び、オーブラック地方の大地と空のなかで、彼独自の料理の世界を築き上げてきた。フランス料理界で有名なレストランガイドの一つであるゴー・ミヨ(Gault-Millau)が、70年代末にブラスを扱ったとき、「上質だが素朴な郷土の素材を活かして、これほどシンプルで、軽やかで、多様で、創造的で、素晴らしい"饗宴"を仕上げる術を持っている者は、ミシェル・ブラスのほかにはいない」と評した。

半径50キロには駅もないような山奥にあって毎朝、山や草原にてハーブやキノコを採集する日々を過ごしました。冬は豪雪地域でクローズするレストランに春夏の間ものすごい数のゲストが訪れていました。当時引退間際のシェフのミシェルブラスと働けた事は大きな学びになりました。
朝ハーブを摘みにいく車の中である日急に、その土地で生まれ育ったミッシェル・ブラスは、「今日の空は綺麗だね」と僕に話しかけました。
僕からすると、その土地の空は毎日同じように綺麗に見える。
でも彼は、60年間毎日眺めているはずなのに、その美しさの日々の違いを感じ取っていたんです。僕にとってはその一言は衝撃的でした。
シェフというのは、料理技術以前に、自らの感性に基づいて表現する仕事なんだなと感じたことを覚えています。
ラギオール村の周囲の季節を自然にかつ哲学的に表現する彼の料理は間違いなく僕の料理感の中心になっています。
 

                             

帰国後、大阪にある有名レストランへ2年間勤務しました。「神は細部に宿る」それを体現したようなレストランでの1g、1℃、一秒にこだわる仕事は本当に衝撃的でした。
当時の多くの失敗と毎日の小さな達成感、全ての日々が自分の軸になっているなと実感しています。
そこで料理に込められたストーリーをゲストに届ける事の面白さに気付きサービスとして働くと決意しました。どんな素敵な絵本も読み聞かせる人がいてやっと価値が出るものだと感じたのです。

その後東京、白金台のTIRPSE(閉店)から仕事のオファーを受け東京に戻りました。
ここでワインサービスにも触れソムリエ資格を取得しました。当時ワインの知識は0でした。毎日当時同僚であったKabiのシェフ安田くんと六本木蔦屋書店で毎日朝までソムリエ教本と抹茶ティーラテを片手に勉強していました。

その後オーストラリアのメルボルンへ移り、VUE DE MONDEにてソムリエとして働くチャンスを得ました。
当時全く英語が話せなかったのですがGoogle翻訳の力と、笑顔とサポート力と何より接客が好きという気持ちだけでポジションを勝ち取りました。

そしてそこではヘッドソムリエのCarlos Simoes (Best sommlier of the year 2017 in Australia)のアシスタントとして働きました。
彼からワインの知識を叩き込まれ得ました。
毎週国ごとに範囲を決めて、週末は問題を作って答え合わせ。
毎日営業後に残って必死に英語のワインブックとにらめっこしていました。
(毎朝、出勤とともに始まる3種類のブラインドテイスティング、と日々の宿題の答え合わせ、そして英語の授業。)
彼に何のメリットがあったのか?いまだに思いますがCarlosからは本当に多くの事を教えてもらいました。
VUE DE MONDEはメルボルンを見渡せる55階にあるレストランで毎日60席の忙しい日々。

VUE DE MONDEでは、素晴らしいマネージャーにも出会いました。
普通、レストランという環境は、忙しくなると殺気立っていくものなのですが、普通は特にマネージャーというのは中でも一番ピリピリしている存在です。ですが彼は、わざとふざけたことを言ったり、煽ってみたり。ポジティブに人を鼓舞するタイプでした。お客さんのことを一番に考えると、スタッフたちが働きやすい状況を作ることが大切なことは、みんな頭ではわかっているけど、なかなかで出来ないものです。
そのマネージャーの姿を見て、これは本当に人が好きな人の働き方だなと感じ、素直にかっこいいなと思いました。ヘッドソムリエとマネージャーに出会えたことが、僕の人生では転機となりました。

その後ニュージーランド、オークランドのClooneyにてヘッドソムリエとしました。昔から今回のパートナーJacobの事は一方的には知っていてずっと彼には興味がありました。なので友人に繋いでもらい働くことになりました。とにかく忙しいレストランでした。60席に対してソムリエは僕一人。
営業が始まってしまえばペアリングにただただ追われる毎日。それはそれで今思えば楽しい毎日でした。
Jacobの料理にも初めて触れ、日本×北欧+NZの彼の料理が好きになりました。
とあるきっかけでお店は一度クローズが決まりBBQをしていた時に「日本で本当に自分達のやりたいレストランをやろう!」という話になり日本へ帰国しました。
その後はLURRA˚の立ち上げ準備に日々走り回っています。
LURRA˚では料理、ドリンクどちらにも関わっていこうと思います。
僕の経験すべてをLURRA˚で生かしていきたいと思っています。

◆堺部 雄介

高校卒業後、先の進路に悩みつつ、バーテンダーのアルバイトを始めました。
何となくかっこいいから、そんな不純な動機からでしたが、次第にバーの仕事にのめり込んでいきました。
最初はひたすら丸氷を削ったり、ボトルの棚を掃除したり、欠品を補充したり、お客様におしぼりをお出しするような下積みから始まり、シェイクやステアなどいわゆる「思い描いていたかっこいいバーテンダーの仕事」をしている先輩の姿を目標にしながら、バーテンダーとしての修行を積みました。

お金がそれなりに貯まり、新しいもの見たさに単身アメリカに渡ることを決意します。
見るもの全てが新鮮で、毎日が新しい物の発見でした。
ニューヨーク、ワシントンと周り、知り合いのつてでバージニア州で、ベビーシッターとして住み込みで働き始めることになります。
当時、3歳、7歳、13歳の子供たちと生活をともにし、現地の子供たちと一緒に遊びながら英語が自然と身に付いていました。

その後、オーストラリアのシドニーに渡り、バーテンダーのキャリアを再スタートさせます。
日本のバーテンダーというだけで重宝されましたし、何より下積みがあったおかげで仕事はスムーズに運びました。
ウエスタンのバー文化は、日本とは随分と異なるものでした。
少し敷居の高い印象があり、何だか少し気取ってカクテルを嗜む日本のオーセンティックバーに対して、ウエスタンたちには食前にはマティーニ、というようにカクテルが日常にありました。

そんなマルチカルチャーなオーストラリアという国で、世界各国の人種の方々と触れ合う中で、色々なスタイルのバーテンディングを学び、既存のスタイルから離れた*ミクソロジーという考え方に傾倒していきました。

*ミクソロジー(Mixology)とは、Mix(混ぜる)とology(科学、〜学)を合わせた造語である。1990年代ロンドン発祥でその後、カクテル最先端のNYに波及、のちに日本に上陸した。ミクソロジーカクテルを作るバーテンダーをミクソロジスト(Mixologist)と呼ぶ。

その折、シドニーのラーメンブームの中、スタンディングバーのあるラーメン店にてバーテンダーの仕事の依頼を頂き、ラーメンとカクテルのペアリングといった、日本ではなかなかお目にかかれないマッチングを手がけさせて頂いたりしました。
この頃からミクソロジーのその先、料理とカクテルのペアリングの可能性、というのを模索し始めました。

その後、モダンフレンチジャパニーズのビストロの店長としてオファーを頂き、ビジネススクールに通いながら、経営を勉強しました。
当時23歳の何も知らない若造に、大切なレストランを任せ、ゼロから経営のイロハを教えて下さった当時のオーナーさんには頭が上がりません。

その後ニュージーランドのオークランドに渡り、5スターホテルのレストランにてバーテンダーとして働きました。
ここで、私のメンターである一人の日本人バーテンダーと出会います。
日本の著名なホテルのバーテンダーさんの経験があり、彼から再度、基本的なオーセンティックの技術を学ぶとともに、既存のスタイルに囚われない新たなカクテルの可能性を感じさせるカクテルのメイキングを学びます。

その後、就労ビザのスポンサーシップを受け、LURRA˚のメンバーと出会う舞台になった、Clooneyというレストランで働き始めることとなります。国内最高ランク3ハットのファインダイニングのレストランにてバーマネージャーとして働きました。
本格的に、カクテルとフードのペアリングを手がけ、そのレストランのクローズに伴い、キアーと宮下とともに日本に戻り、LURRA˚を立ち上げました。

日本に帰国し、LURRA˚として数々のポップアップイベントを開催、同事業立ち上げの傍ら、Monkにてウェイターとして従事し、フリーランスの通訳、翻訳としても活動しています。


Vol.2へ続きます


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