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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・参4

「……上の息子達が、幼くして旅立ったのは、以前お話ししましたね。私は不謹慎ながら、貴方のお父上を羨ましく思いました。貴方は親より先に旅立つことは、決してないのだろうとね……貴方ほどではないが、私も残される悲しみ、何もできない不甲斐なさ、そんなものを知っていると言っていいかもしれない……悲しいのは、当たり前です。大切なものが失われるんですから、悲しくて悔しくて情けなくて、それが当たり前なんです。その感情に素直になったところで、誰も責めはしません……もしも、貴方が私のために泣いてくれるのなら、そんなに嬉しいことはない……私は本当に、幸せ者です」

 正一の手は、ゆっくりと深遠の黒髪を撫でる。途端、深遠の感情は堰を切った。

 頬を伝う滴。これまで主の前で、否、親の前ですら涙を流さなかった。長きに亘って留めていた涙。それはほんの数滴であっても、自らの本音を、自らに突きつけるに不足なかった。

 生きていて欲しい
 どうか、消えないで欲しい

 正一は自分に、家族の、親の温もりを与えてくれようとしているのだ。深遠は、正一の手から伝わるぬくもりに、深く感謝した。

 体が熱い。零れ出る涙も同じ。胸から喉、口元にまで及ぶ震えは、嗚咽を堪えているがゆえのもの。

 ありがとうございます

 確かに伝えておきたい思いであるのに、言葉にできない。口を開けば、堪えているもの全てが流れ出てしまいそうで、恐ろしい。

 深遠は更に深く頭を垂れ、嗚咽を堪える。涙を止める努力をする。今宵、正一から貰った言葉、思い。それは深く、温かく、深遠の心に沁み込んだ。何度礼を述べても足りるわけがない。この人の願いであれば、何でも叶えて差し上げたい。それは、偽りなき思い。しかしその裏に、やはり他者の温もりを恐れる自分がいる。

『貴方に、維知香を託したい』

 願いに対する答えを正一に伝えることは、おそらくできないだろう。ただひとつ、絶対に揺らがぬ思いを、ここに残して行こう。

 深遠は顔を持ち上げ、作務衣の袖で顔を拭った後、正一と視線を交えた。

「私は、宿災の守護として生きる道に、微塵の迷いもございません。維知香様が私を必要とするのであれば、ずっと、おそばにおります。それは確実に、お約束いたします」

 言い終えて、静寂が訪れる。正一は深く、一度だけ頷き、深遠にグラスを手渡した。

 受け取った深遠の手に、洋酒の重みが加わる。二人は静かにグラスを合わせ、澄んだ音色を響かせた。その音は初めての洋酒の味とともに、深く深く、深遠の中に沈んでいった。


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