見出し画像

宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・壱1

 深遠の鼻を突いたのは、逞しく息づく緑の香り。耳に流れ込むのは蝉の鳴き声。体全体が生ぬるい空気に包まれ、若干の息苦しさを覚える。

 あちら側から戻ったらまず、こちら側の気配に体を慣らす。自らが纏う結界に守られていても、【慣らし】は意識的になさねばならない。しかしそれが、戻ったという証拠のようで、煩わしさよりも微かな喜びが勝る。

 足元は道と呼べるほど優しい状態ではないが、足の裏に伝わる感触は柔らかく、地面がほどよい湿気を含んでいるのだとわかる。両の視界を埋める木立が途切れれば、鷹丸家の母屋が見える。あと少し。

 黙々と歩を進める深遠。その背後に、静かな気配が立った。

「お帰りなさいませ」
「ただいま」

 深遠は背中にぶつかった、涼やかな響きに戻りの挨拶を返した。声の主の姿を見ずとも、相手は特定できた。

 何者かは音もたてず、ゆっくりと、深遠の背中を追う。

「戻りが夏ですと、体に堪えますでしょう? 盛りでないだけ、良かったですね」
「そうだな……灯馬(とうま)、変わりはなかったか?」
「随分と、幅のある問い方ですね」

 灯馬と呼ばれた者は笑みを作り、含みを持たせた言葉を返す。

 深遠は足を止め、灯馬に体を向けた。目の前にあるのは、夏を感じさせない冷涼な佇まい。

 青白い顔に濃藍の瞳
 肩の位置でひとつに束ねられた白銀色の髪
 華奢な身を包むのは死装束
 袖を裾から覗く腕と脚には白い布が巻き付いている
 裸の足元は微かに地から離れているようにも見える

 宙に描かれた墨絵のような存在に、深遠は静かに問いを投げた。

「幅のある問い、とは?」
「いかようにも捉えられる、とでも言いましょうか。深い意味はありません。失礼いたしました。こちらは平穏そのものでしたよ。正一様が亡くなられたことを除いて」
「そうか……出立から、どれほど経った?」
「およそ二年です。そうそう、維知香様は中学生になられましたよ。制服がとても良くお似合いです。早く戻って褒めて差し上げたらいかがです? 今日は午前授業のはずですから、もうご自宅におられると思いますよ」
「余計なことを……先に行くところがある」
「お供いたしましょうか?」
「ひとりでいい」
「そうですか。では、後ほど」

 灯馬は気配を断ち、深遠の耳には再び蝉の合唱が流れ込む。その音量に思わず頭上を見上げるも、蝉達は巧みに姿を隠し、羽の煌きすら捉えられない。

(ここは君達の場所だったな……すぐに失礼するよ)

 鷹丸家には立ち寄らず、自宅へ。喉を潤し、水を浴びた後、着替えを済ませる。掃除は戻ってから、と思うも、その必要がないほど部屋は整然としていた。
二年もの間留守にしていれば、家は荒れる物。しかし外観も室内も、まったく綻びを感じさせない。鷹丸家の厚意により、定期的に人の手が入っているためだ。

 一番遠い記憶にある自宅は、分厚い茅葺の屋根であった。しかし、ある時あちら側から戻ると、板葺きに張り替えられていた。障子も襖も、傷んだと認識する前に、張り替えられている。住まいの心配をせず任に就いていられるのは、鷹丸家のおかげ。それなのに。

(見送れなかった…………あの方の好きな花は、何だろうか?)

 正一に似合う花は、どんなものだろう。故人の姿を思い出すと、その横に別の姿形が現れる。祖父を慕い、思う存分甘えていた、維知香の姿だ。おそらく彼女は、大量の涙を流しただろう。誰かにすがって泣いたのだろうか。悲しみは、癒えているのだろうか。

(……俺が今ここで考えて、何の意味がある?)

 自分に失笑し、家を出る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?