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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・壱5

 維知香が言った通り、夕餉の食卓は豪勢で、会話の途切れない、楽しい時となった。しかし昼間の一件を気にかけているのか、維知香の顔には、晴れ空のようないつもの笑顔はなかった。

 卓から皿が消え、吾一と深遠の前にのみ猪口が並ぶ状態となると、維知香は片づけを手伝うと言って台所へ。その姿が消え、足音が遠ざかると、菊野は静かに音を放ち始めた。

「思春期というものなのかしら。昔っから感情を包み隠さず出す子だけれど、今日はまた、随分とわかり易く拗ねて見せて。そんなところも可愛らしいと私は思うけど、殿方にとってはどうなのかしら? ねえ、深遠さん」

 視線を振られた深遠は、数秒考え、会釈のみ返す。その様が可笑しかったのか、菊野は噴き出し、お先に、と残して去った。

 男二人、しばし静かに飲み交わす。戻って間もないせいか、深遠は、いつもより酒の回りが速いと感じた。ただでさえ酒は呑みつけない。杯を置き、少し重くなった瞼に力を入れる。吾一は、深遠の微々たる変化を察知したのか、自らも杯を置き、座を改めた。

「お疲れですよね。あちら側に比べると、こちらは時の流れは随分と速いのだと、維知香が言っていました。戻られたばかりで、体がついてこないですよね」
「申し訳ございません……疲れているというより、気が抜けたと申し上げたほうが、正しいかもしれません」
「深遠さんも気が抜けるようなことがあるのですね。ああ、いや、何となく、貴方は常に、気を緩めずに生きておられるのかと……」
「この地は特別なんです。鷹丸家の敷地は勿論、町にも強力な結界が施してあります。しかも非常に安定しておりますので、そういう場におりますと、つい……」
「父から聞いたことがありますが、この地に結界を施したのは、深遠さんのお父上だとか……今は、どうされているのですか? やはり、脱厄術師を?」
「はい」
「会われて、お話するようなことも?」
「いえ、ひとり立ちしてからは、一度も」
「随分と長いのではありませんか?」
「こちら側の時間で言えば、そうなります」

 言葉を切り、深遠は吾一に気づかれぬよう、小さく息を吐いた。

 父。深遠にとっては、そう呼ぶより師匠と呼ぶ方が相応しい人物。脱厄術師の心得、術、多くを学んだ相手だ。勿論尊敬に値する。しかし父親としての顔を、思い出すことはできない。

「深遠さん」

 名を呼ばれ吾一に顔を向けると、そこに正一の面影が重なった。

「生前、父から話があったと思いますが…………あの、維知香のことで」

 少し困ったような、照れたような表情を浮かべる吾一。その表情にも正一を感じる。親子というのは、おそらく正一と吾一のような関係を指すのだろう。ともに暮らし、影響を受け、面差しや言葉遣いが似る。引き継がれるというのは、そういうものなのだろう。


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