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「人間味がない」という悲しい言葉。

 私が小学生だった頃、2つ下の従兄弟から突然、
「Luちゃんの話し方って人間味がない。ロボットみたい。Sちゃん(私の妹)やAちゃん(私の従姉妹)もおばちゃん(私の母)もみんな普通で人間味あるのに。人間っぽくないのLuちゃんだけ」
と言われて衝撃を受けたことがあります。
「どこが?私だって普通に話してるよ?」と反論すると「うーん、何っていうか他の人と違って人間味が感じられないんだよ、Luちゃんって」
小学生時代から何十年も経った今も「私に欠けている『人間味』とは何か」について度々考えることがあります。

 ASD(自閉スペクトラム症)当事者はしばしば定型発達者から「人間味がない」と言われることがあります。
 普段の会話の中で相手の目を見なかったり表情に乏しかったり話す声が単調で感情が伝わりにくく、「会話」というより「独り言」のような話しかたをする当事者が多いからかもしれません。また相手から話しかけられた時の反応がワンテンポ遅れたりして、定型同士の会話のテンポやスピードに慣れている相手に違和感を与えたり「本心を見せてない」ような印象を与えることもあります。自分の気持ちや感情すら「何故そう思ったのか?」を論理的に説明したがる傾向も、感情をスムーズに表現してお互いの気持ちのつながりを確かめ合うコミュニケーションに慣れている定型発達の人にとってはどこか他人事で冷たく感じられるものかもしれません。
 しかし当事者本人は物心ついたときからそのような話し方が「自分にとって最も自然」なため、人から「ロボットみたいで人間味が感じられない」と言われると「そんなつもりは全然ないのに」と悲しくなってしまいます。

 私の場合、何故会話中に表情が乏しくなったり声のトーンが単調になってしまうのかというと、「話をする」に含まれる様々な動作(アイコンタクトや表情変化、声の抑揚など)のうち「自分の思考を適切な言葉に置き換える」作業にシングルフォーカスするあまり他の動作が疎かになってしまうからなのだろうと思っています。
 定型発達の人はこれらの動作が同時に自然に(意識することなく)できている人が多いでしょうし「そんなのまでマルチタスク扱いなの?」と思う方もいるかもしれません。

 こちらとしては全く不本意ではあるのですが、一般社会では「相手の目を見ない」はしばしば「相手に心を開かない」と解釈され、「単調なトーンで話す」は「会話の話題に興味ない」と見られ、無表情は「相手との会話を退屈に感じている」と映り、全体的に「人間的な温かみが感じられない」という印象を与えてしまいます。
 このため、表情変化や声の抑揚を意識して大きくすることで自分の感情を表そうと努力するASD当事者もいます。

 私の職場に、まるで舞台俳優のように大袈裟に声の抑揚をつけて話す人がいます。ことあるごとに「もうっさぁ~、たーいへんなんだよねぇぇぇ」と不自然なまでに声のテンションを上げるのです。
 彼は自分ルールや細部へのこだわりの強さ、一方的に長々と自分の意見をまくしたてる典型的なASDの特性を持っている人ですが、話し方はASDに多い単調な話し方でなく、逆に「何故この人は舞台で演技をするような話し方をするんだろう…」と不思議に思っていました。
 今から思えば彼もまた過去に誰かから「話し方がロボットみたい」と言われて意識的に声の抑揚をつけて話すようにしているのかもしれません。意識的過ぎて抑揚の不自然さが目につきかえって周りからうっすら避けられてしまっているのは気の毒なことです。

 それにしても「人間味がない」というのは悲しい言葉ですね。当事者だからかもしれませんが私は他のASD特性を持った人の、無表情で単調なトーンで話すスタイルを「人間味がない」と思ったことはありません。感情を表に出すのが難しい特性だからと言って「ASDには人間味がない」という言説がもっともらしく広がってしまうのはどうなのでしょうか。言葉通りに受け取ってしまって「自分には人間味がないのか」と悩む当事者が出てきたらどうするのでしょうか。私は逆に彼らの感情表出の不器用さ故にかえって人間味を感じるのですが。


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