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「学びのプロセス」と発達特性

 以前の「「勉強しなくてもできる」の落とし穴」という記事で、「中学時代はノートを取れば授業の内容を容易に覚えられたのに高校に入った途端なぜか授業内容が全く頭の中に入らなくなってしまい困惑した」という話をしましたが、私自身の発達特性とも関係あると思われるので、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

「視覚化」で乗り切った小中学時代

 「視覚優位、あるいは視覚偏重のこと。」という記事で私には視覚優位(視覚偏重)の特性があると書きましたが、このような特性があると情報に視覚的が手がかりがないと理解が進まず記憶にも残りにくいと思われます。私の小学校時代も4年生ぐらいまではなかなか授業に集中できず、ついよそ見しては担任から叱られることが多かった気がします。
 そんな「ちょい落ちこぼれ」だった私が高学年に上がって偶然編み出した方法が「授業や教科書の内容を図やイラストにして視覚的に理解する」というものでした。教科書の文章を読んだり担任が黒板に書いた文章やキーワードをノートに写して「言葉をそのまま覚える」よりも、それらの内容を一旦頭の中で図式化してから図の形でノートに書くと理解がスムーズで記憶にも残りやすいということに気づいたのです。
 中学に入ってからも視覚化ノートの作成は続きました。何色ものカラーペンによる図や絵だらけのノートでしたから、端からは授業を聞かず絵を描いて遊んでいるように見えたかもしれません。実際、私自身も視覚化された学習内容は頭にすっと入りやすく快適で「勉強している」という感覚はほとんどなかったと思います。

高校の授業では抽象的な内容が増える

 ところが、この「授業や教科書の内容を視覚化して覚える」という勉強法が高校に入った途端に通用しなくなってきて自分でも戸惑いと焦りを感じるようになりました。小中学生の頃の要領で授業内容をうまくノートにまとめることができなくなったのです。
 「視覚優位、~」の記事にも書いた通り、高校の授業のスピードは小中学校時代より格段に速く手書きでノートをとるのが追い付かなくなったのも大きいのですが、高校の授業では視覚化の困難な抽象的な内容が小中学時代より大幅に増えるのも、視覚的な手掛かりがないと理解が途端に遅くなる認知特性の持ち主にとってはとても不利なことだったと感じます。
 また私はAPD(聴覚情報処理障害)持ちでもあるので、授業内容をろくろく板書せずにワーッと口頭説明だけするタイプの先生の授業は特に鬼門でした。もともと言語を一旦映像化して理解するプロセスが必要なうえに、その前段階として「聞き取った音を言語に変換するプロセス」が入ってくるので、「聞いた話をそのまま理解できる」タイプの同級生たちに比べて明らかに理解のスピードが遅くなるからです。(これに加えて「周りの雑音の中から目的の音声を聞き取るために集中する」労力がかかってました。うまく集中できず4~5割しか聞き取れませんでしたが…)
 この時代に発達障害の診断を受け認知特性の把握ができていれば、もう少し自身の「学びのプロセス」を効率的に見直すことができたかもしれません。

認知特性は親子の間でも全く違う

 最近、実家で父の遺品を整理していたら父の大学時代の授業のノートが何冊も出てきました。半世紀以上前のノートが殆ど傷んでない状態で出てきたのも奇跡的ですが、図式がほとんどなく端から端までビッシリと細かい文字で埋め尽くされたページの数々に圧倒されてしまいました。しかも万年筆で書いているにもかかわらずほとんど書き損じや取り消し線がないのも、今も書き損じだらけで誤字を手軽に消せるフリクションボールが手放せない私にとっては信じがたいことでした。おまけに(悔しいことに)その手書きの文字も女性の私よりもよっぽどキレイなのです。笑
 何事にも几帳面で頭から終わりまで筋道立てて物事を考える父の脳内を垣間見た気がしました。おそらく父は言語優位の継次処理型の認知特性の持ち主だったのでしょう。そして父の認知特性とは大きく異なる視覚優位で同時処理型の私と話を交わすことは、父にとっては内心ストレスの溜まることであったかもしれません。
 私が大学を卒業し就職先の入社式をひかえたある晩に父の言った「どうか『世間一般の考え方』ができる常識的な人間になってほしい」という言葉が大学卒業から数十年経った今でも忘れられません。当時父に反抗的だった私は「は?ムリ」と端から聞く気はありませんでしたが、これだけ認知特性が違う私が少々頑張ったところで結局は父の言うところの「世間一般の考え方」も大して身につかなかったのではないでしょうか。(父には親不孝で申し訳なかったですが…)

資格勉強も自分の「学びのプロセス」で

 最近、セカンドキャリアを視野に入れて資格取得の勉強をぼちぼち続けています。受験や進級、卒業のために大して興味のない科目も頑張らないといけなかった学生時代とは違い、大人になってからの勉強は個人的に興味のあるものを自分のペースで進められるので飽きっぽい私も続けることができるのです。
 何色ものフリクションボールを使って図式や絵を多用した(誤字脱字の修正跡がいっぱいの)ノートを作るのは小中学生時代のようで懐かしくもあり、やっぱりテキストを読むだけより理解がしやすいと感じます。自分の認知特性に合った「学びのプロセス」を知っていれば定年後もストレスフリーで楽しく勉強が続けられそうですね。

 


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