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【発達×英語】ASD当事者が語学を学ぶメリット

私は長年英語を独学していますが、外国語学習において発達障害ゆえに苦労する場面は多々あるなと感じています(有利な場面もなくはないのですが)。
今回は私の発達特性の一つである自閉症スペクトラム(ASD)における語学学習の難しさとメリットについて考察してみたいと思います。

全てのASD当事者が語学の才能があるわけではない

ASDの適職として挙げられているものの一つに「翻訳者」があります。実際ASD当事者でプロの翻訳家として活躍されている方が何人かいます。
翻訳家レベルでなくても語学が好きなASD当事者は多いようです。ASDの優れた記憶力は膨大な量の単語を覚えるのに役に立ちますし、規則性を好む特性は多くの人が苦手とする文法学習もさほど苦になりません。地道にコツコツと努力を継続できる特性も語学学習には有利です。

しかし私自身は自分に語学の才能があるとは思っていません。実際高校時代は英語の授業についていけず試験で赤点を何回も取りましたし、大学に入って通いだした英会話教室でも最初の自己紹介でパニックで何も言えず泣いてしまい先生や周りの生徒をびっくりさせたこともあります。

私の当時の英語学習は、①テキストの英語の単語を全部調べて訳を書き込む②何が主語で何が述語かわかるように単語やフレーズをカッコや丸でマークして文構造を文法の参考書で確認する、というかなり泥臭い勉強法でした。テキストが真っ黒になるまでひたすら訳やマークを書き込んだものです。
ちなみに文法学習は受験英語のバイブルと言われていた伊藤和夫氏の「英文法頻出問題演習(駿台受験シリーズ)」が役に立ちました。5回ほど繰り返し問題を解いて、文法に対する苦手意識が克服されたと思っています。

しかし後に洋楽サイトや語学学習サイトで知り合ったいわゆる「英語の達人」たちが異口同音に言うのは「文法を独立して学習したことはない。生の英文をたくさん読めば文の構造が自然と頭に入るから。文の構造が入ってこないのはまだ英語のインプット量が充分でないからなのでは?」というものでした。これには衝撃を受けました。
「私は文法の問題集を繰り返し解いて文法を覚えました」というと「そういう人もいるんだ…へぇ...」という反応をされたものです。

何も文法知識のない状態からひたすら英文を読むことで文法まで習得できてしまうという彼らの才能に度々嫉妬を覚えていました。そもそも母国語でもたくさん本を読んでいた割に作文が大の苦手だった私には到底無理な学習法です。

母国語でさえ「第二言語」と感じてしまうASD

前に発達障害の専門医に「私は普段絵のようなもので物を考えて、それを言葉に翻訳して話します」と伝えたところ、「多くの人は言葉で考えるんですよ」と言われたことがあります。

この「絵で考える」「イメージで考える」というのは全てのASD当事者に共通する特性ではありません。逆に言語に特化したタイプのASD当事者もいます。むしろそっちのタイプのほうが私の周りには多かったので、「何で同じASDなのに自分は言葉でしっかり考えることができないのかな」と悲しくなったものです。

ASD当事者の著名人としてアメリカの動物学者のテンプル・グランディンが知られていますが、彼女の著書「Thinking in Pictures」の冒頭部にはこう書かれています(原著からの拙訳)。
「私は画像で考えます。言葉は私にとっては第二言語のようなものです。私は言われたり書かれた言葉を音付きのフルカラー映画に変換してそれをビデオテープのように自分の脳内で流します。誰かから話しかけれられたら瞬時にその言葉を映像に置き換えます」

このくだりを読んで「全く私と同じだ」と共感したと同時に、「だから私はいくら本を読んでも言葉が覚えられないのか」と納得しました。私は本を読むときに「書かれた言葉」を覚えるのでなく「書かれた言葉から想像された映像」のほうを覚える癖があるようなのです。なので後で本の内容を思い返そうとしても映像は鮮明に浮かぶのに言葉では「大体こういうことを言っていた」レベルのことしか説明できず具体的にどういうことが書かれていたかは記憶からさっぱり抜け落ちてしまうのです。
以前の記事で私が文字や文章を映像化してから思考する「言語映像」タイプであるという話をしましたが、どうやらこの特性が語学学習においては邪魔になるようです。

英作文が一向に上達しないのも「文の内容だけ覚えていて文そのものを覚えてないから」なのだろうと最近になって気がつきました。
よく「英作文は「英借文」」と言われるように、できるだけ多くの例文パターンを覚えて、その都度単語を入れ替えて文を完成させるというのが効率的な英作文の習得法のひとつですが、私はこの例文を覚えることがどうしても苦手なのです。
例えば「If you turn right at the next traffic light, you will see the station」(次の信号を右に曲がれば駅が見えます)という例文を見たときに私が印象に残るのは「自分が道を歩いてると信号が見えてきて、右に曲がったら駅が見えた」という映像であって「If you turn right~」という文そのものでないので、この文章を応用して「次の角を左に曲がれば公園が見えます」という文を作ろうとすると例文が頭に入っていれば単語を入れ替えするだけで済む所を一から文を組み立てることになり時間がかかってしまいます。

参考書の例文をただ見るだけでなく、実際手を動かしたり音読したりして暗記する作業が必要なのでしょうね。

外国語学習が日頃のコミュニケーションを見直すヒントとなる

このように、全てのASD当事者に語学の才能が先天的に備わっているとは限らないのですが、外国語を学ぶことはASD当事者にとってメリットが大きいと感じています。
その一つに「外国語学習を通して自身の定型社会とのかかわり方を客観的に見直すことができる」というのがあります。

「自分の外国語がネイティブスピーカーにはどのように伝わるだろうか?」という視点は「自分の言ったことが定型発達者にはどう伝わるだろうか?」というのと似ているからです。

発達障害者が定型社会に適応するためのコミュ力を身につける努力は、ちょうど日本人がグローバル社会の共通言語である英語を習得する努力に似ているところがあります。当たり前のようにその能力を身に付けている人が多数の一方、異文化を持つ少数派に生まれた人間は努力で獲得していかないといけません。

逆に言えば定型発達の日本人が英語を学ぶときに感じる言語的心理的ハードルを発達障害者は既に「定型語」を学ぶときに体験しているので慣れていると言えるでしょう。私の場合は母国語である日本語すら耳から覚えられず本から読んで習得したので、英語習得のプロセスも 母国語習得のプロセスも実はそんなに変わりません。

それでも(帰国子女のような例外を除き)日本人はどんなに英語が流暢になっても英語ネイティヴの感覚で話すことはできず、できるのはせいぜい「英語ネイティヴの感覚をひたすら学習し、想像しながら話す」までだと思います。
これは、ASD当事者がいくら定型発達者の会話パターンを覚えまくって定型発達者のように振る舞っても決して定型発達者そのものにはなれないしコアのASDの部分は変えられないのに似ていると思います。
私も定型発達の感覚は直感的にはわからないので後付けで学習し想像しながら話すしかありません。

しかしアメリカ人だって日本人に「英語を話してほしい」と思うだろうけど「アメリカ人になってほしい」とまでは思わないでしょう。むしろ日本人らしさ、日本人ならではの個性を大事にしてほしいと思うのではないでしょうか。

同じように、私の目指す自分像は「ASDを治して定型になる」ことではなく「ASDのまま定型の考え方を理解する」ことです。いわば「ASD語と定型語を理解するバイリンガル」が理想の姿です。
定型の考え方を尊重しつつASDである自分を大事にしたいものです。

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