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水玉の歴史。可愛い水玉と、毒々しい水玉。

水玉模様といえば、見方によって色々な解釈が可能な可愛らしい模様として人気で、これまでに歴史の中で何度も流行を繰り返してきました。
日本では、ベニテングタケをはじめとした、乙女たちによるきのこ類賛美が、ここ最近の少し風変わりながらも目立った動きだったように思います。

乙女たちの崇拝の的、ベニテングタケ
毒々しい水玉がとても可愛らしい


ところで水玉模様はフラメンコではよく、踊り手さんや唄やギターなどのバックアーティスト達が、男女を問わず衣装で水玉を身につけているのを目にします。
フラメンコの衣装といえば水玉、と言ってもいいくらいに、水玉とフラメンコは親密に結びついています。

フラメンコの衣装に取り入れられた水玉模様

では、フラメンコにおいて水玉模様とはどんな意味を持つのでしょうか。
フラメンコで水玉模様が多く使われるのはどうしてなのでしょうか。

実はその理由は不明です。
多くのフラメンコアーティストたちが「フラメンコだから当然水玉でしょ」というようなテンションで自らの衣装に水玉模様を取り入れ、それどころか自分たちのショーのフライヤーやフラメンコグッズに至るまで、徹底してフラメンコ的なものとして水玉模様を使うにも関わらず、使っているその本人たちにも、どうしてフラメンコは水玉模様なのかわかっていないのです。

噂ではこの水玉は、「差別や弾圧を受けた貧しいロマ(ジプシー)たちが、生活をするために辛い労働をしている時に飛び散った泥、流した汗や、涙を表している」といった話を聞くことがあります。
けれども本当のところ、由来ははっきりしません。
フラメンコも、フラメンコを創ったと言われているロマたちの文化にも、もともと文字で何かを残す習慣がないので、事実は曖昧でよくわからないのです。

フラメンコの衣装としての水玉の歴史を追っていくと、まず、スペインに限らず、昔から各地の「ジプシー」と呼ばれる人たちの間には、民族衣装がないというところに行き着きます。
そもそも「ジプシーの女性達は、糸を紡ぐことも布を織ることもしない」と、研究家達が報告しているのです。
彼らは流浪の生活という文化を持つせいか、衣服については彼らの生活する地域に合わせる傾向があります。
異邦人である彼らが現地での生活に馴染むためにも、安全性の面においても、衣服を現地のものに合わせるのは必要なことだったのかもしれないし、経済的な利点も含めて、現地でお下がりをもらって使うことも多かったようです。

ただし、彼らには衣服の好みの傾向があったということは記録に残っています。
何人ものジプシー研究者が口を揃えて言うに、ジプシーの女性は、

鮮やかな対照をなしている色彩
濃い緑、濃い黄色、特に濃い赤
キラキラする感じのもの
かかとまで届く長いひだつきのスカート

が好きとのこと。
確かにこの好みと、実際の現代のフラメンコの衣装とは、イメージがぴったり合います。
しかし、この中に「水玉模様」の記述はありません。


もし水玉模様がジプシー由来ではないとすると、では一体この模様はどこからやってきたのでしょう?

実は、ヨーロッパの古い歴史を追ってみても、水玉模様にはなかなか出会えません。
フラメンコ以前の、中世〜近世頃の貴族達の肖像画をあたってみてもそういう模様の衣服はほぼ見つからないし、古くから続く貴族や騎士達の家柄の紋章を見てみても見つからないのです。

その理由にはまず、機械の力がなければ、点を均等に並べて描くことが難しかった、ということがあげられるでしょう。
また、不規則に並んだ点の模様については、医学の力がまだ発達していない頃には、不吉なものとして忌み嫌われてもいました。
何故なら、布についた点は、ハンカチについた血や皮膚の出来物などを連想させたからです。
そこからそのイメージは、ハンセン病、梅毒、天然痘、ペスト、はしかなど、当時の人々にとっては不治の病といわれていたものに繋がりました。
水玉模様には、恐ろしいイメージも人々の間にはあったのです。

では結局、フラメンコの水玉は一体どこから?

ここから先は、確実な資料が残っていない以上断言ができないので、私の説になります。

英語で水玉模様のことは、ポルカドットと言います。
「ドット」はご存知、点のことですが、「ポルカ」とは、ヨーロッパで1830年代から1860年代頃まで大流行した「ポルカ・ミュージック」のことを指します。
これはボヘミア起源の軽快なステップの農民のダンスでしたが、ネルーダというハンガリーの舞踊家がこのダンスを見出したことによってボヘミアの野原を飛び出し、プラハ、ウィーンを駆け巡り、1840年にはパリの女性を熱狂の渦に巻き込み、その4年後には海を越えてロンドンに、続いて大陸を越えてアメリカにまで到達します。

おかげで時の作曲家達は大忙し。
実に沢山の、さまざまなポルカを作曲しました。
その名も、「Happy Family Polka」(幸せな家族のポルカ)、「Aurora Borealis Polka」(北極光のポルカ)、「Pussy’s Polka」(猫ちゃんのポルカ)、「General Grant Polka」(グラント将軍のポルカ)、「Katy-did Polka」(キリギリスのポルカ)、「Thunder and Lightning Polka」(稲妻のポルカ)、「Barnum’s Baby Show Polka」(バーナム赤ちゃんショーのポルカ)など。
まだまだ書ききれないほど沢山あります。
これだけ種類があれば、どんな時にも、どんな気分でも、毎日必ずその時にぴったり合ったポルカを踊ることができることでしょう。

そしてこれだけの人気があるものを目の前にして、商人達が黙っているはずがありません。

彼らはこの流行に合わせて、さまざまな商品を考案しました。
ポルカ・カーテン、ポルカ・ハットなど、まるで「ポルカ」という単語をつけておけばなんでも売れるとばかりにさまざまな商品に溢れ、そのほとんどの商品に、元気あふれる水玉模様があしらわれていました。
ダンスと、商品の水玉模様とは、直接の関係があったかどうかはわかりません。
ただ、ポルカの軽快なリズムと、元気で溌剌としたドットのムードが合っていた可能性はあります。
ポルカとドットの組み合わせは、売るための口実だったのかもしれませんが、とにかく、1830年からの30年間ほどは水玉模様が異様に流行し、流行の後も模様自体は消えずに残り続け、20世紀初頭にはまた人気が復活したのは事実です。

20世紀初頭に衣服に取り入れられた水玉模様の例

実は、このポルカドットが大流行していた時期と、フラメンコというジャンルが今に伝わるものに近い形で形成、発達を始めた時期とは同時期にあたるのです。
直接ポルカと関係のないものにまで、これだけ大きな影響を与えたポルカドットですから、同じくフラメンコの生成や、ショーの衣装にも、何らかの影響があった可能性もあるのではないでしょうか。
また、ポルカとフラメンコとは、パリの劇場で「異国もの」が上演される際に同じプログラムに載ることもあったので、そういった場所から混ざり合いが始まったということも考えられます。

それにしても水玉模様は、病や不道徳といった毒々しいイメージから、ポルカドットの溌剌とした可愛らしいイメージまで、両極端のイメージを持つ不思議でフェティッシュ心をくすぐる模様です。
まるでベニテングタケが、可愛さと毒をあわせ持っているのと同じように。

水玉模様の妄想は尽きません。

ところでこの水玉模様の流行とフラメンコとの関わりについては、新作のCD&BOOK『Flamenco al Aire フラメンコ・アル・アイレ 〜ロマンティック・スペインと水玉の幻想』で描きましたので、ご興味のある方は以下よりご覧になってみてください。

↓以下のオフィシャルサイトで、視聴・試し読みができます。

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