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おばあちゃんから聞いた、あのころの話〜記録しておきたい、昭和の実生活〜

(こちらは姉妹版note で過去に掲載した記事です)

先日、義祖母(夫カイのおばあちゃん)が亡くなった。
昭和ひとケタ生まれの、90歳を過ぎたおばあちゃんは、住み慣れた家に住み、身の回りのことは全部自分でやって、そして最期は自宅であっさり逝ってしまった。見事なまでに自立した人生だった。


おばあちゃんの人柄

私はカイと結婚する頃におばあちゃんに初めて会ったのだが、こんな見ず知らずの他人に近い私にもニコニコと優しい言葉をかけてくれる、素敵な人だった。
料理上手で、食べるものは全部一から手作り。私も帰省のたびに黒豆を煮たのやポテトサラダなど、おばあちゃん自慢の料理のお相伴に預かっていた。
私の祖父母はかなり前にみんな他界してしまったし、カイの方も、近年次々と祖父母が亡くなっていき、最後に残ったのがこのおばあちゃんだったこともあり、私は勝手に親愛の情を抱いていた。

おばあちゃんに、聞いておこう

一昨年、お盆に家族みんなで帰省したとき。

そんなおばあちゃんに戦争の頃の話を聞いてみよう、と言い出したのはカイだった。「今しかないよ」と。
確かにそうだった。そして、あの時聞いておいて本当に良かったと思う
同じ街の中で少し離れて住むおばあちゃんを、車に乗せて連れてきた。腰が90度近く曲がったおばあちゃんはなんとか車から降りて自分で歩いてくると、よっこらしょ、と体を起こしてまぶしそうにニコニコと、モモとララを見つめた。おばあちゃんにとってはひ孫に当たる。
夫の実家のリビングで、敏感ちゃん (HSC) モモとララも同席の上、私たちは戦争の頃の話を聞いた。それは想像していたよりはるかに大変な話だった。
これは、おばあちゃんから聞いた、そのころの実生活の話だ。聞いた話をなるべくそのまま記録しているので文章としての体裁はあまり整っていないが、貴重な個人史だと思う。
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おばあちゃんから聞いた、せんそうの頃の話

食糧難

東北の田舎で、8人きょうだいの末の方に生まれた。男の兄弟が戦争に取られる前は、みんな働いていたから収入もあった。でも戦争に行って、残った女きょうだいで畑や田んぼをやらなければいけなくなった。
肥料は馬の糞くらいしかなくて、土地が肥えているとは言えなかった。野菜は手作りしていたけれど、そんなに豊富に採れるわけでもなくてあまり食べられなかった。
田舎だったので飢えた人はいなかったけれど、作物や農地は国に取られていた。兵隊さんにあげるのだと言って。
姉がさらに奥まった田舎の方にお嫁に行っていたので、そこからお米を融通してもらってなんとか生きていた。
そのお米も大豆やかぼちゃを混ぜて食べていた。昼間は肉体労働があるので普通に炊いたご飯だが、夜はお粥でお米をなるべく消費しないようにしていた。
小麦もないから、パンも作れなかった。でもじゃがいもは育てやすくてお米の代わりになった。
女手ばかりで稲作をやっていたので、男手がある家に比べれば収穫量は僅かだった。それでも収穫したコメはお国に取られていた。何俵供出しなければならない、と決められていた。
味噌も納豆も手作りしていた。
魚は川に流れてきたものを拾って囲炉裏で焼いて食べたりしていた。
土用の頃は草刈り。朝3時に起きて草刈りをしていた。板をしょって、鎌も背負って草刈りに行っていた。勤労のお礼として、百合の花もらったり、おにぎりをもらったりしていた。

交通手段

交通手段は徒歩のみ。街までは3里半(約14キロ)もあったが、正月の買い出しなどの時は朝早く起きて街まで歩いた。

学校

じいさんばあさんがいる家だったのであまり学校には通わせてもらえなかった(⇦これは詳しく理由を聞けば良かったと思うのだが、文化的に女の子は学校に行かせてもらえなかったという意味なのか、祖父母の世話に手が取られて行けなかったということなのか分からない)。
たまに学校に行くと、「何ページまで進んだ?」と友だちに聞いていた。なぎなたの練習もさせられた。

冬の寒さ

東京から疎開してきた子もいた。冬の寒さは囲炉裏でなんとかしのいでいた。寝るときは子ども優先で、足を温めてから寝させたり。大人は我慢していた。

戦後すぐの暮らし

兄弟はみんな満州に行っていた。捕虜になっていて、日本に帰ってくるのに5年も6年もかかった。
父親は、長男ではなく次男を可愛がっていた。その次男の帰りを待っている間に寝込んで亡くなってしまった。
貧しいながらも食糧は全て自給自足で、物々交換はしなかった。姉の嫁ぎ先からもらってくる米は3年米で、もみが赤くなって美味しくないものだった。
田んぼの作り方も今と違った。稲をある程度育てるところまでは人間の糞を混ぜて、数日経ってからモミ入れて、稲が育ったら手作業で田んぼに植えた。田んぼも家から遠かったから大変だった。
毎月決まった日に街で朝市があって、3里半の道を歩いて行った。
学校も今のような給食はなくて、弁当には塩ホッケと梅漬けを入れて行っていた。栄養なんて考えられない。食べていくことで精一杯だった。

生活が楽になったのは戦後何年してから?

大体戦後10年くらいして、ようやく生活が楽になってきた。実家には兄弟が帰ってきたし、自分も結婚して夫にも稼ぎがあったから。

今の暮らしをどう思う?

今は文化的だね。でも昔は人のもの盗んだり人ごろしするようなことはなかったよ。
熊も昔は出なかった。山から木を切るから、熊も食べるものがなくなって里に降りてくる。
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その後のおばあちゃん

戦争の時代を生き抜いたおばあちゃんはその後も苦労を重ねた。最初の夫を早くに亡くし、ひとりで子どもを育てなくてはいけなくなり、再婚した夫は酒に溺れる人だった。

時代背景から学校にきちんと行けなかったので、就職も難しかったそうだ。かくして、経済的にも、生涯を通して決して恵まれたとは言えなかった。
今のカイがいるのも、モモやララがいるのも、そんなおばあちゃんが強靭な精神力と丈夫な体で生きてきてくれたからこそ。
お葬式の後、カイの父(おばあちゃんの息子)が、カイにこんなメッセージを送ってきた。

母は学歴がなく学力もなく言葉も雑なものがあったが、その時の環境を考えると全て納得できた。心に裏腹のないいい性格だった。二人の夫に恵まれなかったが、受けいれて生き抜いた偉大な母だった。義理兄(おばあちゃんの娘の夫)も涙して遺体に向かい合っているのだから、凄いと改めて思った。本当に人に尽くす事の真意は第三者からみて良くわかるし、心が揺さぶられるものなのだろう。

私たちにできること

貴重なあのころの話を聞かせてくれたおばあちゃんは、もう遠いところへ行ってしまった。
私たち世代にできることはなんだろう。
ありきたりな言い方になるかもしれないけれど、私たちはこういう話を次世代に伝えないといけないのではないか、と思う。
この note におばあちゃんから聞いた話を残すこと。これも私ができる、小さなことのひとつ。

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