「ほんもの」だけを愛する人
Facebookをスクロールしていたら、1月14日からスパイラルでやっている
向田邦子さんの没後40年特別イベント「いま、風が吹いている」
についての、婦人画報の紹介記事が出てきた。
もう、亡くなられて40年も経つのか、と思った。
台湾で航空機事故で亡くなられた時、私はいくつだったのだろうと、自分の年齢から40を引いてみた。
電話が鳴って、父が大きな声を出したのを覚えている。
当時、新聞記者だった父は、向田邦子さんのところに連載記事をいただきにいく仕事もしていた。
急いで事故のニュースを見た記憶があるけれど、内容は覚えていない。
すごい方が亡くなられたのだ、ということだけはわかった。
向田邦子さんの寺内貫太郎一家は、毎度、お約束で西城秀樹が飛ばされていたり、樹木希林さんはまだ、悠木千帆だったか。
面白くて、子供ながらに見るのを許してもらっていた。
阿修羅のごとく、も初めて見た時は、よくわからない年齢だった。
きちんと本を読んだのは、しばらく後だが、人間の観察力の凄さと、着眼点に圧倒された。
そして、このような文章が書ける背景が知りたくなった。
ご本人の日常はどのようなものだったのか、妹の和子さんの
「向田邦子の青春」を読んだ時、感慨深かったのを覚えている。
向田邦子さんの亡くなられた恋人。
その部分を何度か読み返していた。
私は、泣いたと思う。
美しい向田邦子さんの写真を撮影された恋人には、その時には家庭があり、20代の終わりに繋がりを一度は断ち切る。
その後、独身に戻っていたカメラマンと交際は復活したけれど、彼は身体を壊して働けなくなった。
シナリオライターとして忙しくなってからも、恋人のためにご飯作りに通い、おでんやシチューを作り置きしてきたという。
確か冬の描写ではなかったか。
恋人は向田邦子さんの活躍を楽しみにしながら、ある日、ふいにこの世からいなくなった。
そんな切ない日々を、その本で知った。
婦人画報の記事の中でも、和子さんが語られている。
普段から「まず気に入ったものを作り、食べ、それから遊び、それから面白い本を読み、残った時間をやりくりして仕事をする」が姉の信条で、(後略)
あるとき、姉から「あなたサ、織のきものを私が買うから、5年着てみてよ。ショウが抜けて着込んだ感じの紬を着たいのよ。新しいのは野暮だから。」と言われたことがあります。骨董品が好きな姉ではありましたが、きものにも、時代を経た布の風情を好んだのでしょうか。「真新しいものは恥ずかしい」という美意識は姉の独特のものだと思います。ですから、人間についても「清潔でまっとうで」という礼讃ではなく、老若男女どの人にもだめなところがあり、そこも含めて愛おしい、という眼差しを感じるのです。
美しいものを愛し、「ほんものだけを愛する人」と和子さんがおっしゃるような、美学を持った方だったとわかる。
そして、完璧なんかないのだということをご存知で、その大らかなところを、私は心底、素敵だ思う。
古い、向田邦子さんの料理本がある。
これは、ずっと私の大事なものである。
中のお料理を作ってみればいいのに作ったことはなくて、ただ、写真を眺める。
まずは「食べる」、という根源的なことを大切にされていた、その様子がわかる。
どうしても気に入った手袋が見つからず、ひと冬手袋なしで過ごした「こだわり」の気性。
亡くなってから40年経って尚、こうして魅力が語られる向田邦子さんが92歳でご存命だったら・・・。
やはり、ファンの誰もが考えてしまうことだろう。
婦人画報には、
「没後40年 向田邦子と青山 憧れの人が92歳になっていたなら、を考える」
という記事で、享年51歳で亡くなった向田邦子さんの住まいや、蒐集されたものなどが載っている。
向田邦子 没後40年特別イベント
「いま、風が吹いている」
旺盛な好奇心で風のように軽やかに生きた向田邦子。その向田スピリットのバトンを、現代のクリエイターたちがつなぐイベント。ドキュメンタリー上映会や、演劇「寺内貫太郎33回忌」、邦子の愛した楽曲でのコンサートなど盛りだくさんの11日間。向田邦子の感性が、デザイン、グラフィック、文芸、演劇、音楽のジャンルで再編成されて展開される。
書くこと、描くことを続けていきたいと思います。