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「まともじゃない人」の居場所

「今の若者って、まともじゃないよね」

何年か前、職場の先輩に言われた。

長時間労働やパワハラに苦しみ、自ら命を絶つ若者が増えていることについてだ。

先輩はPC画面を真っ直ぐ見据えたまま、両手の指先を絶え間なくキーボード上で走らせつつ続けた。

「つらいなら、会社なんてやめればいい。自殺に走ろうとする意味が分からない。"まともじゃない"から、極端に考えるんだよ」

「私みたいに"まともな人"からすれば、自殺したがる気持ちがわからない。別の会社に変えればいいだけじゃん」

「パワハラだって、本当にパワハラかどうかわからないよね。人間は、しごかれて磨かれるものじゃない? ちょっと注意されただけでパワハラなんてねぇ」

先輩の言葉は正論だ。見事なまでに正論。反論のしようもない。

そして先輩がこんな話を始めた理由も、よくわかっている。

私自身が「まともじゃない人」だからだ。

まず不登校経験がある。さらに大学は卒業したものの就職せず、フリーターになった。

「メンヘラ」「落ちこぼれ」「社会不適合者」……

先輩のように「まともな人」から見ると、私は上記のような言葉でひとくくりにできる「変人」なのだろう。

ただ他者を理解できないからといって、すべてを「変人」という安易な言葉でまとめ、社会から放逐するのはやめて欲しい。

現代の競争社会に疲れ、生きる意味を見出せず、自殺願望を抱いてしまう人の感覚はむしろ健全に思えないか。

たくさん稼いで、たくさん消費する。そんな社会の仕組みに適応できない人たちは、本当に「まともじゃない」のか。


社会に適応できない人は、年々増えているように思える。

昔、生きづらさを抱えて破綻する人は、ベートーヴェンやゴッホ、夏目漱石などの「偉人」や「天才」に多かったかもしれない。

しかし今では、社会の在り方に疑問を抱き「うつ気味になってしまった」人なんて、いくらでもいる。

「まともな人」たちにお願いしたい。

うつ傾向や面倒なまでに敏感な感受性を、「理解してくれ」とは言わない。

ただ「理解しよう」と努力はして欲しい。

人にはそれぞれ向き不向きがあり、キャパシティも免疫力も異なる。

「"まともじゃない人"はこれだから困る。すぐ自殺したいとか言い出して、面倒を起こす」と考えたくなるのは当然だ。

しかし「まともじゃない人」とレッテルを貼るだけでは、状況は改善しない。

まして社会の片隅に「まともじゃない人」を放逐すれば、世の中はますます回らなくなるだろう。最悪の場合、「まともな人」が、「まともじゃない人」になってしまいかねない。

いったん「まとも」という言葉自体から、自由になった方がいいだろう。

そうすれば世の中は、「自分」と「自分じゃない人」だけになる。困っている人がいれば助け、自分が困っていたら助けてもらいやすくなるだろう。

人には必ず、ふさわしい居場所があるはずだ。

「生きづらさを抱えている人」は、誰に頼っても構わないから、諦めずに居場所を探し続けて欲しい。

そして「とくに生きづらさを抱えていない人」は、自分とは違う感覚の人を「理解してみよう」と努力して欲しい。

そうすればいつの日か、誰もが自分にふさわしい居場所を見つけられると信じている。

仮に「まともじゃない人」でも、自分にふさわしい居場所で、平穏な生活を送る権利はあるのだから。

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