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電車が通る高架線の下で

そのノイズは必要だった。
だから、ぼくはゆっくり呼吸をする。

「美しいと思ったんでしょう?だったらきっとこの先もずっと美しいよ」
ぼくが好きだったのは、そんなことを言う橘先生だった。
先生は現代国語を担当する若い男性の教師で、ぼくが所属する文芸部の顧問だった。
先生は生まれも育ちもこの町だった。
前に、先生の母もこの町で生まれ育ったという話を聞いたことがある。
愛しそうに、独特の方言を話す母より、都会生まれの父の方が「訛っている」ように感じていたと授業で話していた。
それだけこの地方の方言は、先生の耳に心地いいそうだ。

先生はカナル型の補聴器をいつもつけていた。
ぼくはその理由をきいたことがないし、他の生徒も同じようだった。
なんだかぼくには触れてはいけない秘密のような気がしていたし、みんなもそんなふうに思っていたようにみえる。

学校の近くには高架橋がたつ河川敷がある。
私鉄が走っていて、市の中心部の都会まで一本で行くことができる。ぼくも含めて、この私鉄を使って登校している生徒が半数以上だった。

ぼくたち三年生は卒業間近で、卒業前最後の部誌を、卒業制作の一環でつくっていた。ぼくはそこに載せる作品に、四苦八苦していた。

冬の澄みきった空気に包まれたその日、ぼくは部活動後に先生に助言をもらおうとした。
文芸部が部室として使っていたのは、西棟の隅の教室で、窓際に金魚鉢が置いてあった。

何もない静かな時間。時計の音だけが鳴り響く。
金魚鉢のとなりに先生は立っていた。
「金魚もことばも似たようなものだ」
先生は白く細い指先で誘うように、金魚たちに餌を与えている。
「自分から生まれたことばを、水槽に入れて泳がせてあげる。そうやって泳ぎだしたことばたちの動線をつなげて紙に書き起こす。それがぼくたちのやる作業だ」
校庭から運動部の掛け声がきこえる。西陽が水面に射し込んで照り返す。
「ぜんぶ偶然の産物でしかない。でも確実にすべてはつながっているんだ」
ぼくは呼吸のように無意識にことばを呟いた。
「とても美しいですね」
眼鏡越しの先生の目尻が少し下がる。
「そう思うかい?だったらきっと、」
静寂を電車が突き破って、先生の声はかき消された。


ある日、ぼくは部活動が終わったあと、忘れ物があることに気が付いた。
急いで部室に戻る。
ドアを開けると、そこに先生の姿はなかった。だけどぼくは、さきほどまでなかったものに気がつく。

あの金魚鉢に一番近い机。その上に先生の黒い鞄とともに、雑然といくつものカセットテープが積まれていた。
なんだろうこれは。
ぼくがそのカセットテープに手を伸ばし出した瞬間、ドアの開く音がした。
「おお。どうした」
「忘れ物を取りに来たんです。先生、あの、これはなんですか」
カセットテープを見て、先生は少し口ごもる。
「ああこれはね、あの高架線の下で録った、電車が通る時の音をつなぎ合わせたテープなんだ。補聴器を外したあとはなるべく常に流していて。そうすると中和されて丁度いいんだ」
そう言って先生は濁すような笑みを浮かべた。

中和?どういうことだろう。
ぼくは先生の目に問いかける。先生は続ける。
「ある意味、これはノイズなんだ。バイオリンの音を出す時、同時に弓が弦をこする音もするだろう。きれいな音を出すためには必ずノイズが必要なんだ。」
先生はそう言いながらカセットテープをまとめて、鞄にしまった。
「きれいな音だけでなく、ノイズそのものも書けるようになれるといいね」
先生は、この町の訛りで言った。
「きみなら書けるよ」

その日の夜、ぼくは机に向かい、最後の部誌に載せる作品づくりにとりかかろうとしていた。
ノイズを作品にする?
ぼくには遠い異国訛りのことばのようにきこえた。
書いてはペンを置き、書いてはペンを置く。
時間は刻一刻と過ぎていったが、何も生まれない。
書くことが楽しくてぼくは文芸部に入ったが、今は何かを生み出すことは途方もない作業のように思える。
句読点を打って、ぼくはペンを机の上に置き、ベッドに横になった。


あの西棟の隅の教室で、ぼくは先生といた。
部誌に載せる作品を提出しながらぼくは言った。
「ぼくには書けません」
先生の眼鏡越しの目は見れなかった。
「ノイズはノイズでしかないからです」
「そう思うかい?ならきっとそうなのかもしれない」
先生は父のような、「訛りのない」標準語で言った。


高校を卒業し、ぼくは社会人になっていた。
家業を継ぎ、毎日忙しない日々を送っていた。
部誌が無事完成し、印刷を終えたと、下級生の部員から連絡があった。

懐かしい校舎へ戻り、部員たちと会う。
部誌をパラパラとめくり談笑しながら作品に目を通していく。
ひとしきり話したあと、ぼくは彼らに手を振り、校舎をあとにした。

「ああ、そうだ」
ぼくは完成した部誌を片手に、あの河川敷へ向かう。
春のあたたかい匂いでいっぱいだった。
満開の桜の並木道を下り、高架線の下に立つ。
すぐに行ける場所ほど遠い。
胸がなぜか高鳴っていった。
春の匂いでむせ返りそうになったその時、電車が通る。


涙が溢れだした。
想像でしかなかった音を、はじめて実際にきいた。
そうか、先生はずっとこの音をきいていたんだ。
何も知らないぼくに、濁流のような水が一気に流れ込んだ。
それは無数の泡を含み、ぐるぐると回転していった。
金属音のような水音。それでいて懐かしいような音。
美しい、美しい。とても美しい濁流。
先生はずっとこのノイズの中にいたんだ。

このノイズの中にいつもいたから、あんなに美しいことばをつなげられたんだ。
全部必要だったんだ。
全部つながっていたんだ。きれいに、信じられないくらいきれいに、つながっていたんだ。
ノイズの水に溺れかけていたぼくは、餌を追いかけるように翻った。

あくせくしていたぼくの心とは裏腹に、体は動きたくても動けずにいた。
そのまま何時間もその場に立ちつくしていた。

「先生、ぼくは何も知りませんでした」
ことばは、音楽は、偶然にも必然に、全部ぼくの中にあったんだ。
先生があの補聴器で切り取っていた音は、ぼくには想像することもできない。
みんな、誰もが、自分の耳できこえる音しかきこえないのだ。
そんな金魚鉢の中を泳いで、ゆっくり浮上していこう。



家業にも少し慣れ、落ち着いてくると、ぼくはまた書きはじめた。
ノイズをことばにするのはやっぱり難しかったけれど、生きることや呼吸することと同じくらい必要なことなんだと思う。

卒業しても何回か文芸部の部員と会う機会があった。
そこで、橘先生の近況をきくこともあった。
先生は変わらず、文芸部の顧問を担当し、部員たちの相談にのっているそうだ。

彼らもまた、ノイズに気づくのだろうか。
そしてまた、きれいな音を奏でるのだろうか。
つぼみがたくさんの雨風を受け、少しずつ花開いていくように。

そう、全部必要だった。
だから、ぼくはゆっくり呼吸をする。

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