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血のつながりとは、あるいは結婚とは 映画「親愛なる君へ」

台湾映画「親愛なる君へ」を観ました。

ストーリー

とある町の片隅、息子とその祖母と3世代の3人暮らしをするジエンイー。病に苦しむ祖母と学校に通う息子の面倒を見ているジエンイーは2人とは血のつながりがない。息子はジエンイーがかつて愛した男の忘れ形見だった。面倒を見る義理などないのに献身的であるジエンイーに疑問を抱くのは、かつて愛した男の弟。
借金で家族に迷惑をかけた上、上海に逃げた男は家族のように振る舞うジエンイーを警戒し、その疑心に満ちた心は、母が亡くなった時に爆発する。

ストーリー自体は、途中からそうなのだろうなと予想はついてしまうものの、ラストの息子からのメッセージでもある弾き語りに全てが込められていて、胸が熱くなった。


運命が変わるとき(これ以降ストーリーに関わる記述が増えます※)

ジエンイーは血の繋がりのない2人を、愛した男の母と息子だからという理由で、不自由な暮らしを受け入れ、献身的な態度で面倒を見続けている。
息子の死を受け入れられず、ジエンイーに冷たく当たる母親は、病気で気弱になったのか、5年にもわたる彼の態度に心を動かされたのか、最終的にはジエンイーに労う言葉をかけるのだが、その死は散々迷惑をかけてきた弟により、疑惑のタネへと発展する。

散々迷惑をかけたくせに何を今更、と思えなくもないけれど、この弟の立場になってみれば、兄の最後のパートナーであり、今や自分よりも家族としての役割をこなしつつある男は、怪しい以外の何者でもない。警察に駆け込み、死因を特定するべきだ、と訴えるのは当然のことだろう。

ジエンイーの本当の気持ち

このジエンイーの献身ぶりにはやや疑問があるものの、頑なに罪から逃げ、最後まで黙秘を貫こうとした態度にはある一定の予測が生まれる。
大抵の人が気づくであろう、ジエンイーの止むに止まれぬ理由は予想を裏切らない展開ではあるけれど、そこに翻弄される1人の少年の立場になってみれば、大人の事情がいかに身勝手であるか認めざるを得ない。

その上、ゲイで恋人もいるのにカムアウトせず、結婚をして子供までもうけた男を、あまりに愛するが故に拗れさせたのは、ジエンイーのとある密告のせいだった。まるきりの他人であるにも関わらず献身的に尽くすのは、少年に対する贖罪の行動ではないのか、とも勘繰れる。その上、恋人の死に目に立ち会ったのも自分のみ。ある意味、自分はその少年から両親を取り上げたと思い込んでもおかしくはない。

ただ、ジエンイーが愛に溢れた男であるということは間違いないように思う。たとえ愛する人であっても、その母親にまで深い愛情で看病にあたるということは並大抵の覚悟ではできないからだ。

立ちはだかる偏見

ジエンイーは、母親であるシウユーが亡くなったとき、警察からも弟からも疑惑の目を向けられる。まずその疑惑の些細な種となるのが、彼が男であり、愛した人も男であるという事実。愛し合い、共に息子を育てようと誓うその間柄は夫婦のようではあるが、当然2人に婚姻関係はなく、別れたければ別れられるのに、という偏見の目を向けられる。
ジエンイーは、なぜ血の繋がりのない2人と家族で居続けるのかという疑問を向けられた時、それが自分が女で、婚姻関係を結んでいる妻であったならば、同じ質問をしますか、と逆に問い返す。

結婚をしていないということ、そして同性同士であるということ、ふたつの偏見の壁は高く、最終的には「家の財産を狙っている赤の他人」ということになってしまった。
今回の場合、先に逝ったパートナーから頼まれたことで、ジエンイーが息子を養子にしたことも問題を大きくした要因になっている。
(亡くなった祖母の土地家屋の名義がいつの間にか孫になっていたことも複雑に絡む)

パートナーとして信頼しあった2人の間では簡単なことが、関係する人間が増えることにより、それらのバイアスが重なり合って大きな問題へと発展してしまう。
これは家族の様々な形が今後増えるだろうと予測される中、法律や条例で解決できるのか、大いに疑問に感じた。

結婚する、ということの意味


日本で言うところの婚姻関係というものは、日本に住まう限りはとても便利にできている。ただコインの裏表のようにメリットとデメリットは数々あろうかと思うけれど、妻である、夫である、親子である、というだけで済んでしまう問題、当たり前に与えられるものは多くあるように思う。
男女の独身同士のカップルに与えられる権利の「婚姻」。以前は当たり前のようにそれに則って人々は家族になっていたけれど、今後はもっと柔軟な形が認められる社会になることが必要になってくると思う。


ラストに意味するものは

本当の家族とは何か。血のつながりだけなのだろうか。本作が抱える問題として人の気持ちの複雑さと、愛する人を守りたいという真摯な思いが届かない嘆きの、脆く切ない部分をえぐり出している。

ピアノで生計を立てるジエンイーは常にピアノとともに暮らしていた。ラスト、それを受け継いで拙い鍵盤を弾く少年の、温かで素直な歌声に涙した。

キレイ事ではいかない。ただ、心を込め自身が作詞したという少年の歌声の中に、2人の今後を暗示させる言葉が見え隠れする。

ただ単に、真実を知って愕然とするというよりは、人が誰かを愛し、その人を信頼し、その人からの信頼を得るということには、尊い人間の原点があるように思えた。それは険しい山に2人きり、以前はパートナーと今回はその息子と訪れたジエンイーにごく自然にある感情なのだろう。

決してハッピーエンドではないけれど、この2人の未来にきっといいことがある。そう確信するような見事なラストだった。

本作を見る前は、男性同士の恋愛から引き起こる弊害や偏見といったことがテーマなのかと思っていたが、そんなことよりも男女など関係なく、この作品が提示する問題について、今後社会がどうアップデートしていくのか、そのはざまにいるのが現在なのだろうか、と考えた。
人と人との関係は時には脆く、時には強固で、それに疲れてしまう人もいるのだけれど、やはり人と触れ合い、心を通わせるということは人間にとって必要な行為なのだと、そう感じる。
その中でどれだけの人と信じ合えるのか、それは人生をかけて人々が辿っていくテーマなのかと思う。


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