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世界に取り残されるような

私は本当に怒っている。何に怒っているかというと、IELTS・TOEFL・OETといった資格試験に対してだ。

これまで沢山の方々の英語学習をサポートしてきたが、こういった資格試験は素質がある将来希望に満ちた人材を失わせていると思う。

特に顕著なのはリスニングとスピーキング対策だ。頭の回転が早く文章の理解力が高いにも関わらず、この2つのスキルが苦手というだけで1年も2年も対策に時間を費やす方達がいる。最初の1年はなんとか頑張れるのだが、徐々にモチベーションの炎は薄れ、自分の夢を変えるという妥協点で再度ライフプランを構築するようになる。

もちろん、私の指導力が及ばないところもあると思うし、それは重々承知だ。しかし、この2つのスキルに関しては、本人の感性がより重要な要素になっていると強く感じるのです。

リスニングは勉強よりも感性が大切

文章を読むという行為は理性的です。一度文章を見てから「筆者はこんなことを考えているんだろうな」と、センテンスに含まれる意図を感じ取り理由付けすることができます。そしてその時間の猶予がある。

一方で、音声で情報を聞き取るということは直感的。聞いた時にどの情報がより記憶に残るかは、個人の受け取り方によって違います。(調べたわけではないのであくまで私の感覚ですが)

つまり、資格試験の形式に合った情報を認識するのが得意な人もいれば、そうでない人もいる。その違いがより顕著に出るものなのだと思います。言い方を変えるとセンスのようなものがあるのではないでしょうか。

私はワークアウト(筋トレ)が好きです。昔、これはカッコいいと思って、逆立ちした状態で腕立て伏せをする練習をしたことがあります。Youtubeなどをみると逆立ちは簡単と言っていたので、遅くても1週間もあればできるだろうと思っていたのですが、8年経った今でもほとんどできません。

これは私の感性が逆立ちというイレギュラーな状態にフィットしていない、またフィットするように修正することができないということが原因だと思います。(言いたくないけれど老化もあるのでしょう)

少しでも進歩が見れればいいのですが、なかなか進展が見えず、結局逆立ち腕立てという “目標” を諦めてしましました。(今でもたまに練習しますがまだまだ道のりは険しそうです)

感性の変容を起こすことが手っ取り早い

顕著な例かもしれないですが、リスニングやスピーキングの力も同じようなことなのかなぁと感じることがあります。そもそも英語の音を聞き取れる、聞き取れないは、その人の中で育まれた感性によるものです。

音に対してセンシティブか、そうでないか。そもそも、音が好きか嫌いか。こういった感性は努力で変えられるものではありません。だって、それがその人らしさでもあり、その人の思考の元になる要素の一つだから。必要なのは努力によるインプットではなく、感性の構造自体を変えるような変容のプロセスなのではないかと思うのです。

正直に言ってしまうと、たとえTOEFLのリスニングで満点を取れたとしても、実際に海外に行ったらファミレスですら会話を聞き取ることができません。スピーキングが満点近くあっても、スピーチを求められたら脇汗びっしょりです。

何が言いたいのかというと、リスニングとかスピーキングというスキルは、海外という異文化によって自分の感性を変容させていくことによって身につくスキルであり、それを国内で努力のみで習得しようとするのは無駄が多いのではないか、ということです。

世界から取り残されているような感覚

話に戻ります。
だから、資格対策をサポートしてて「リスニングが後2点足りませんでした…」といった報告をもらった時に、ものすごく悔しいし、なんでこんなにテクノロジーが発展している時代にわざわざテストなんて受けさせるんだよ!と資格試験に憤りを感じてしまうのです(完全な八つ当たりですが。笑)

TOEFLの試験内容が変更され、試験時間が3時間から2時間になります。(私が学生の頃は4時間近くかかった気がします。そう考えると半分になりました)

また、大学の要件としてDuolingoのようなオンライン完結の英語試験も認められるようになりました。

時代の流れとして、徐々に英語試験の内容は簡易化しているような気がします。しかし、それでもリスニングとスピーキングの壁は依然として高いです。

英語ができないと世界から取り残されていくのか。そんな感覚にも陥ってしまう今日この頃です。(ちなみに学習方法に関しては個人的な答えが出てきているので、そのことについても後日書いてみます)

リスニングとスピーキングで悩んでいる人たちの長年の課題が解決できるように、今日も教材開発や新しい知識のインプットを頑張ります。



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