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33.月に手を伸ばせ。たとえ届かなくとも。旅人のつぶやき。

今からそう遠くない昔のこと。

遡ること、私が学生時代、よく色々な大人に

あなたは将来何になりたいの?
あなたは将来、どう生きて行きたいの?

と訊かれました。

まじめであった私は必死に頭を抱え、英語と現代文が得意だったのも兼ねて、文系の強い大学へ行き、〜の免許や、〜の資格をとって、〜系の会社に勤めたいというように、筋書きを立てて、両親や学校に説得してもらえるように...と。とにかく両手は頭を抱える為のものでした。

しかし、私は中学の時にギターに出会い、機会にも高校生の頃から音楽活動をしていました。

当時、私は大好きな音楽を封印して、これからの為だけを思って勉強を続けました。

大学入試の当日も、私はそれまでは塾にも通い、たくさん勉強をし、これだけやって来たのだからと自信を持って挑みました。

結果はなんと...見事に全て受かりませんでした。

私は浪人生活に入ります。

そんな中、私は音楽活動をしていたので、もう一つ新しく音楽方面でも学校を探し始めました。

それからの日々は、毎週末のように学校説明会に行き、「ああだこうだ、うちの大学の先輩はこんな就職先についていて、こんな凄いことをやってのけたんだ、皆さんも云々」というような話をどこに行っても延々と聞かされます。

当時、私は世界の広い民族音楽が好きで、音楽大学では、そういった専攻のある大学を探していました。

そして、ある音楽大学に行った時のこと。

大体の大学には、全体の学校説明会の後に個人面談があり、大抵の場合は当然ながら、先にこちらの話を聞いて、「〜君にはウチの〜コースがあっていて...云々」その学校のアピールをしてくれます。

しかし、そこの先生は違いました。

先生は、僕の作った曲や、専攻したい内容を聞くなり、こう答えました。

「我々が学校で教えられるのは、理屈であって、感性を伸ばしてあげることはできないんですよね。残酷なことにそこに苦しむ子をたくさん見てきました。卒業生も皆が音楽の仕事に就けるわけではないし。君みたいな子は学校ではなく、もう直接海外へ飛び込んでみたらどうだい?」

私はこの言葉に感銘を受けて、学校進学を選択肢から外し、海外へ渡航するための資金を得るべく、アルバイトを繋ぐ生活を始めました。

しかし、アルバイトという非正規雇用に対する世間の目は厳しく、どうしても、ちゃんと正規雇用で働かないダメな人というような風当たりを強く感じました。

私も、今の生活に引け目を感じ、社会に出てからこんなに見下される生活に心が折れてしまいました。

私の手は地面を殴っていました。

そんな時、ひょんな機会から、1人でフィンランドを旅行することにしました。

フィンランドは留学先の最有力候補でした。

はじめてのフィンランド旅ではさまざまな出会いや価値観が変わる瞬間がありました。

中でも印象的なことは、ヘルシンキにて、スウェーデンから来た夫妻と出会い、彼らはスウェーデンで花屋を営んでるといいました。

地元と花が好きで、地元で花屋を営むという、「やりたいこと」をする生活がとても楽しいと言っていたことを鮮明に覚えています。

次は、スウェーデンへ行こう。

そう思い、フィンランドから帰ってきて1週間もしないうちに航空券を取りました。

当時、スウェーデンへの直行便はなく、せっかくなので、経由地であるデンマークのコペンハーゲンに数日間滞在することにしました。

コペンハーゲンにはセブンイレブンがあります。

当時、私はカバンに好きなバンドのキーホルダーをつけていました。

私がセブンイレブンで買い物をしていると、セブンイレブンの接客をしてくれた店員さんが、「それはどこで買ったの?」と聞いてきてくれました。

そんな彼はコペンハーゲンのバンドマンでした。

全身ピアスとタトゥーの彼ですが、コンビニで働く今がとても楽しいと言います。

何故なら、好きなバンド活動ができるから。

彼は「やりたいこと」の為に働いているから毎日を苦痛だと思ったことはないと言っていました。

ここでも胸が騒ぐようなものがありました。

さらに、私の職種も聞かれて、日本ではよく思われてないというと、彼は「働く人は皆、平等だ、それよりも、その先に目標がある人が豊かになるんだよ。」

そう言いました。

その後、半年が経ち、私はオーストリアのウィーンにおり、ハンガリーのブダペストへ行く鉄道のボックスシートにて、ハンガリー人の夫婦に出会いました。

夫は手取り19万の肉体労働者。

妻は週2回勤務の手取り2万5千円。

日本の非正規雇用で働く、私よりも低い賃金です。

さらに、彼はウィーンで大工をしながら、家賃の安いハンガリーの小さな田舎町に暮らしています。

とても、困窮しているように見えますが、旅行に行くことが好きで、旅先でパンしか食べられなくても、旅が好きだから生活を続けているといいます。

実際、嬉しそうにスペイン旅行の写真を見せてくれたり、私が次はチェコに行くと言うと、プラハの女の子の話をしている夫に妻がツッコミを入れている様子を見ていると、彼らの姿は幸せの形そのものでした。

彼らもまたやりたいことをしていたのです。

さらに、ここでも、私の職種を聞かれて答えると、

「日本にしかない特別な仕事をこなして、日々を生活しているのはとても立派だと思う。君も働いて音楽や旅行など、好きなことの為に頑張っている。それ以上何を求めるんだい?」と夫は言いました。

私の目には涙が溜まっていました。

この旅から帰ってくると、私は音楽のオーディションを片っ端から受けました。

すると、大手のレーベルや好きなバンドのインディーズのレーベルなど、ありがたいことに、3社から内定をいただきました。

しかし、まだ精神的に幼かった私は、周りの反対や、レーベルとの契約の内容に嫌気がさし、もう音楽はきっぱり辞めることにしました。

その後、頭が真っ白な状態が続いたのですが、その時、ふとまた旅をしたいなと思いました。

そして、バイトでは出世もして、肩書きがつき、お店で働きながら月1〜2回のペースで旅を続けました。

そんなある日、武漢からコロナウイルスのニュースが入り、気がつけば旅はおろか、家からも出られない日々が訪れてしまいました。

私の手はまた頭を抱えていました。

家ベッドに大の字になり、目に映るものは月でも太陽でもなく、古く黒ずんだ天井でした。

そんな日々の中で、ふと「やりたいこと」について考え直してみました。

すると、やはり、私のやりたいことは「旅」であり、「音楽」だったのです。

それから、旅と音楽が仕事にできるようにと、自宅で、旅先の写真販売や再び音楽制作を始めました。

そして、最近は創作を続ける舞台として、YouTubeにも挑戦してみました。

思えば、学生時代、頭の中で描いていた生活のビジョンとは全く違うけれども、自分の心に素直に従えば、なるようになるものだなぁと今になって感じます。

私の挑戦は道半ばですが、「人々に必要な豊かさ」とは、欧州の旅で出会った彼らに教わった「やりたいことを軸にし、面白いことを探求し続けること」だと思いました。

たとえ、うまくいかなかろうが、馬鹿にされようが、自分の心の赴くままに、満たされ、生きていればそれで十分だと思います。

そんなことを思いながら、気がつけば、私は月に手を伸ばしましたとさ。





まずは、出会っていただきまして心からありがとうございます。 私は旅をメインに生活しているので、サポートしてくださったものは全て今後の旅や記事の取材などに充てます。そして、より良いコンテンツが提供できるように、励んでまいりますので、今後とも応援よろしくお願いいたします。