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読書感想文:「走ることについて語るときに僕の語ること」

村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。

最近の本の題名には、やたら長い文章みたいな題名多いけど、村上春樹さんは、その先駆けだったりしないだろうか。違うかもしれないけど。

共感することや、納得したことが、書ききれないくらい沢山あった。

その中でも、個人的に心に残った部分について、ここに記しておきたいと思う。

※長い記事です。

まず、最初に心に残った部分について。

本を読む限り、村上さんは、30代の頃から、毎日走っていて、フルマラソンにも、もう何十回も出場しているらしいのだが、毎回同じポイントで、辛く苦しい時がやってきて、腹が立ってくるらしい。

それを、村上さんは、

35キロを過ぎると身体の燃料が尽きてきて、いろんなものごとに対して腹が立ち始める。

「走ることについて語るときに僕の語ること」p102

という風に書いている。
走ることだけじゃなくて、人間には、何でも限界値があって、それは、「慣れ」とか「練習」だけで乗り越えられるものではなくて、どんなに経験を積んでも、鍛えたとしても、自分にとっての「超えられない限界値」というものはやってくるのだと思った。

だから、仏のような心でずっと過ごしたいと思っても、「限界値」がやってきたら、どうしたってイライラし始めるし、(それは多分、生きていくために、身体や心が教えてくれる大切なこと)避けることは出来ない。

そういう瞬間をどうやり過ごすのかと言うと、
村さんは、

そのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。

「走ることについて語るときに僕の語ること」p103

と書いている。少し難しいけれど、何となく分かる気がする。要するに、受け入れるしかないということなんじゃないだろうか。
そういうイライラしだしてしまうパターンの自分も含めて、自分の一部として、受け入れて統合するしかないという感じだろうか。村上さんの伝えたいニュアンスとは違うかもしれないけれど、私の解釈としては。

もう1つ、興味深かかったのは、筋肉の特性(長距離向きの持続力のある筋肉とか、短距離向きの瞬発力のある筋肉かとか)は、精神的な特性に結び付いているのではないか、という考察である。

人には生まれつきの「総合的な傾向」というものがあって、本人がそれを好んだとしても、好まなかったとしても、そこから逃れることは不可能ではないかということくらいだ。傾向はある程度まで調整できる。しかしそれを根本から変更することできない。人はそれをネイチャーと呼ぶ。

「走ることについて語るときに僕の語ること」p126

と書いている。これも何となく分かる気がする。
卵が先か鶏が先かじゃないけれど、体の特性は少なからず精神に影響を与えていると思う。
筋肉だけではなく、疲れやすさだったり、ストレス耐性だったり、そういうものは、私達の考え方や、好みや選択に間違いなく影響を与えていると思う。

私個人のことでいうと、胸を張って長距離向きだとは言えないけれど、間違いなく短距離向きではないと思う。1つのことを地道にコツコツと継続することが、そこまで苦ではないので、どちらかと言えば長距離向きかもしれない。

村上さんは、小説を書く上で欠くことのできない自分の中の「毒」と渡り合うために体力をつけているらしい。
別に小説を書く人だけではなく、人間は誰しも、自分の中に「毒」を持っているものだと思う。
自分で気がついているかいないかに関わらず。

そういう「毒」に負けないためにも、体を健康に保つことや、体力をつけることは役に立つのかもしれない。

100キロマラソンを終えた村上さんの記録は圧巻で、「走る」という行為が、「瞑想」になる瞬間があるということを、教えてくれた。
(走ること以外の動作も、そういう瞬間を生み出すことはあると思う)
私も、村上さんの足元にも及ばない程ではあるけれど、少しだけ趣味で走ったことがあって、たった10キロくらいだとしても、そういう「瞑想」的な瞬間、無心になる瞬間はある気がする。

100キロマラソンを終えた村上さんが、

「リスキーなものを進んで引き受け、それをなんとか乗り越えていくだけの力が、自分の中にもあったんだ」という個人的な喜びであり、安堵だった。

「走ることについて語るときに僕の語ること」p174

と感想を書いているのを読んで、
そうだ、誰かよりスゴくなりたいから目標を立てるのではなく、自分で自分と約束をして、それを守れることで、自分への信頼感が増し、自分のことが好きになれる、肯定できるようになれるから、私達は目標を立てるのかもしれない、と思った。

最後に、この言葉も心に残った。

個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてはあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の足で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべきは尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。

「走ることについて語るときに僕の語ること」p253

この他にも、走ることだけではなく、生き方全般にも言えるな、というような言葉が沢山散りばめられていて、読んでいて、何かが満たされた気持ちになった。何かが肯定されたような気持ちになった。

私は、村上さんの小説が好きなのだが、
村上さんの小説は、主人公が、浮気されても、閉じ込められても、世間一般で言う「ヒドイ目にあった俺」「可哀想な目にあった俺」という視点ではなく、極めて個人的な当事者同士の事柄として、淡々と事実のみが述べられ、主人公の脚色されないそのままの感想が書かれていて、変に読者を動揺させない。

起きた事実や、セリフに、驚かされることはあっても、主人公の気持ちに感情移入して、辛くなったり、悲しくなったりはあまりしない。

そういう部分に癒されるのだと思う。

多分村上さん自身が、自分を客観的に見れる人なのだと思う。

私なんかが、偉そうに分析できるものでもないけれど、自分を客観的に観察する力と、深く自分を見つめる力の両方が共存している村上作品を、これからも楽しみにしている。

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