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近くて遠い LGBTQ +

LGBTQ+の当事者同士だからといって、お互いのことを理解しているわけじゃない。僕が体験した、とあるアセクシャルの方とのお話。

僕はクローゼット(カムアウトしていない)のゲイ。

過去に、付き合ったことがあるのは以下のタイプの人たち。
・ストレート(女性)
・ゲイ
・レズビアン


アセクシャルの方との体験談

友情結婚の活動で、とあるアセクシャルの女性と知り合いになった。
(友情結婚って何?という方は、別記事を参照ください)

アセクシャル(エーセクシャル)
他者に対して性的欲求を抱くことが少ない、またはまったく抱くことがない。恋愛感情(好きという感情)を抱くことはあっても、その相手に性的な感情を持つことはないことが特徴。

その女性は20代で、会社員、見た目は可愛い系のすらっとした感じの方だった。彼女もまたアセクシャルのことを伏せているので、2人だけで話しやすい場所で会うことが多かった。

僕は、同性に対して恋愛感情、性的感情ともにあって、恋愛感情=性的感情といってもいい。
恋愛感情≠(ノットイコール)性的感情という前提がいまいちピンとこない
家族愛、友情愛などに性的感情が伴わないのは理解できる。

彼女いわく、男性と一緒に遊んだりすることはできるが、手をつなごうとされた瞬間、強い嫌悪感があり、アセクシャルと思うようになったという。男性がお金を払うとか、運転をするとか、彼女を引っ張っていこうとする男性らしい行為に、強い違和感と嫌悪感をもってしまう。当然、男性とは肉体関係をもつ前に破綻する。

男性側が男性らしさを強調してくることが嫌なのか、それとも自分に女性らしさを求められるのが嫌なのか、その辺りは、彼女としてもよくわからないようだった。

ほかにも、同性の女友達とは手をつなげるが、男性とは難しい。ただし、彼女はレズビアンではないという。

彼女と話していて、もしかすると過去に男性への何某かの強いトラウマを持つような出来事があったのではないか?・・と疑問に思ったが、流石に立ち入り過ぎた不躾な質問になるため、聞くことはしなかった。


事実は小説より奇なり

友情結婚の活動で知り合ったが、僕らは付き合うことはなく、お互いの秘密を共有する飲み友達となっていた。

彼女と知りあってから、それなりの月日が過ぎたある日、彼女から気になっている男性がいると相談を受ける。相手はストレート男性。
僕は、ゲイの男性か、同じアセクシャル男性じゃないと難しいのではないか?と伝えてみたが、彼女はどうしても気になり、あきらめられない。

しばらくして、彼女からその男性と付き合うことになった、そして肉体関係にも発展したと報告を受けたのだ。彼女はいった、僕というある意味で安全な男性(ゲイのため性的感情を持たれないという意図で)と関わるうちに、克服できたのかもしれないと。

「おめでとう、よかったね」、、
そう伝えたけれど、僕の頭の中は混乱していた。

性的感情は持てないのではなかったの?
少しはあったということ?
そもそも克服ってなに?

彼女に疑問をおもむろに、ぶつけた。
そして、その回答。

「私ストレートだった。アセクシャルではなかった。」



大どんでん返し?

前置きをすると、あくまで彼女の一例であって、アセクシャル全体の話ではないので、誤解しないでほしい。
ただし、Q+に属する人は、こういう可能性もあるという点は記しておきたい。

事実は小説より奇なりというが、僕にとっては大どんでん返しの展開に、しばらく心の整理がつかなかった。

彼女とのつながりの根幹、それはお互いに、①友情結婚をめざしていたこと、②セクシャルマイノリティであること、③クローゼット、隠していること、の三つだろう。

しかし、これら互いに共有してきた共通項、二人にとってのトップシークレット情報、これが一瞬にしてすべて霧散したことになる。彼女のほうは初めから事実すら存在せず、幻だったといってもいい。

決して彼女が悪いという話ではないのはわかっている、なぜなら彼女は出会った当初から何一つ変わっていない。悩んでいた事実も変わらない。

しかし、その真実は自身をアセクシャルと疑い自己嫌悪になっていたストレート女性だった。

最後まで聞くことはなかったが、男性への恐怖心(?)ゆえに、恋愛体験が乏しいストレート女性だったのではないかと思う。

彼女に対して、文句を一ついうとすれば、自身のセクシャリティに確信をもつまで、友情結婚の活動はしてほしくないということ。

なぜなら、僕らゲイには克服なんて言葉は存在しない。生まれ変わらない限り、変わることがないから苦しんでいるのだ。だから、僕は覚悟して友情結婚をめざしている。おなじ境遇で悩んでいる相手だから、カミングアウトまでして、心のうちを打ち明けて話してきたわけだ。

実は私は違いました、すみません、というのは、結果論としても流石に酷過ぎないか。同じ目標を目指す仲間として釣り合わなさ過ぎないだろうか。

これまでの僕の気持ちや行為はなんだったんだろう??と虚無感すらある。

仮に友情結婚した後に判明したとしたら、どうするつもりだったんだろうか。それこそ、人によるだろうが、離婚裁判のきっかけになりかねない。


エピローグ

ストレート男性との幸せを謳歌する彼女は、まるで憑き物が落ちたかのように明るく、幸せそうだった。
それに比較して、ゲイという取れない憑き物がある僕とは大違いで、そんな彼女の成長を素直に見ることはできなかった(辛かったから)。

それから彼女とは少しずつ連絡を取らず、疎遠になったのはいうまでもない。

この体験をしてから、僕の中で一つ決めたことがある。それは友情結婚の候補に選ぶセクシャリティの方は、レズビアンにするということだ。

誤解しないでほしいのだが、いわゆる、Q+に属する人(アセクシャル、ノンセクシャル等)は、自身のセクシャリティについて本当にそうだと完全に言い切れる人でない限り、友情結婚をめざす仲間として信用することは難しい。それが、僕の結論である。

ちなみに、Q+に属する方たちの生態が気になり、このnote含めて調べてみたことがある。
やはり一定数、実はストレートの勘違いでしたと公言している人がいるようだ。

LGBTQ+という概念は必要か?

話は変わるが、LGBTQ+と聞くと、皆さんはどんなことをイメージするだろうか?

セクシャルマイノリティー界隈?
似たような属性、共通したコミュニティ?
苦労してそう?
政治が絡んでめんどくさそう・・?

漠然とそんなイメージかもしれない。

しかし、LGBTQ+当事者同士はまったく価値観が違うし、それどころかお互いのことをまったくといっていいほど無理解なものなのだ。そもそも理解し合うことが難しい。

例えるなら、白人、黒人、黄色人の人種のように。アーリア人、ユダヤ人、日本人等の民族のように。ゲイもレズビアンもバイセクシャルもトランスジェンダーもクエスチョニングも、ほかアセクシャル等も、別者なのだ。

LGBTQ+の概念自体が、ざっくりとストレート男女とそれ以外に区別したものだ。それ以外に一括りに包括されてしまっている。

LGBTQ+は、いまや専門用語として確立して、商業化され、世界的に認知されたらしく、ネット検索すれば、書籍、企業研修、市町村の条例、法案、有名人など、とにかく無限に情報がヒットする。

個人的には、こんな用語なくてもいいのにと感じることもある。しかし、一方で時代というかセクシャルマイノリティを広く認知してもらうには必要なのかもしれない、と思ったりもする。

前段のエピソードに書いたように、変わることがないLGBTと、もしかしたら変わるかもしれないQ+を一括りにするのもどうなのか?とも思ったりするし(変わらないQ+の人は別として)、そもそも細分化していく必要性も、いまいちピンときていない。

僕にはまだまだ経験と知識が足りないということだけは、わかっている。

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