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【新書を読む#1(1)】戦後日本政治史1945-1960

こんにちは!今回から新書を読んで学んだ内容をアウトプットする【新書を読む】を始めていきたいと思います。恐らく自分のための備忘録が中心になっちゃうと思いますが、温かい目で見ていただけると幸いです。

学校の図書館には中公新書・岩波新書が多めなので、必然的に読む本も二つの出版社から選ぶことが多いかもしれません。

記念すべき#1に選んだのは『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで(中公新書)』です。政治には関心はあるものの知識がまだまだ足りないなと感じているため、これからも政治関連は読んでいきたいです。


「はじめに」

この本の特徴は戦後日本政治を15年ずつのブロックに分けて解説しているところです。そして筆者曰く、これは便宜上のものではなく実質的な意味もあるということです(後述)。

筆者は戦後から政治史を書いた理由も語っています。現代政治を深く理解するためには占領期から語るべき、なぜならその後の政治の枠組みを決める日本国憲法が成立したから、また、憲法は現代まで貫く政治的争点であるからということです。

憲法成立をはじめとして、敗戦に伴う占領改革は歴史上レアな外発的ショックであり、幸か不幸かこれ以上の変化は起きていないからこそ、占領期から見ていくことが大事だということです。

そういった意味では日本の歴史を見る時には政治の分野に限らず、戦後から見ていく根拠はあるなと感じます。例えば教育の分野では教育憲法とも呼ばれる(旧)教育基本法が1947年です。簡単に当てはめられるものでもないかもしれませんが、教育史を学ぶときには意識したいと思います。

次からは「第1章 戦後憲法体制の形成」1945年~1960年の政治です。

「1 占領改革」

とりあえず各総理の特徴と在任当時の出来事を占領期の総理中心にまとめてみました。また、初期野党の様子と政党の変遷も見ていきます。

鈴木貫太郎(~1945)

8月14日、ポツダム宣言を受諾し、その3日後に辞任。

東久邇宮稔彦王(1945)

皇族・陸軍大将。軍の暴発を抑えてGHQを円滑に迎え入れる役割を果たす。9月2日、降伏文書調印を行い、間接統治方式を確定。GHQによる事前通告なしの警察官僚大量罷免を受け、抗議の意を込めて2か月もたず総辞職。

幣原喜重郎(1945~1946)

戦前の「幣原外交」で知られる。外交官・外相時は親英米派。新憲法制定には消極的だったが、皇室制度廃止を人質に取られる形でやむなくGHQ案を受け入れる。憲法の審議・公布・施行は全て後任の第一次吉田内閣下。

吉田茂(1946~1947)

戦後初の衆院選では自由党が第一党に。総裁の鳩山が首相就任に意欲を見せるも、戦前の右派的言動が原因で公職追放となり、後釜は親交の深かった吉田に託される。吉田は戦前に親英米派の外交官として活躍した経緯から戦後のリーダーとなった点で幣原と共通。国内のインフレ・食糧不足による混乱の中、共産党主導の抗議活動に苦しむ。GHQは共産党への警戒を強め、時局収拾のため吉田内閣を交代させる方向に動く。

片山哲(1947~1948)

社会党・民主党・国民協同党の連立政権が誕生。社会党委員長の片山が首相就任。保守的な吉田自民党を嫌ったGHQは歓迎。組閣時の内閣支持率は約70%で国民の期待値も高い。占領改革の仕上げをしてGHQから評価されるも、連立与党間・社会党内の亀裂によって10か月足らずの短命に終わる。軋轢を生んだ争点は炭鉱国家管理問題であり、民主党の幣原派が離党するなど保守派が反発、この過程で法案が骨抜きにされ左派からも不満が噴出した。

芦田均(1948)

片山の後任には連立与党内から民主党総裁の芦田が選ばれるが、たらい回しと批判される。主な施策は労働運動抑制を目指した公務員の労働権制限のみ。昭和電工からの賄賂問題で芦田内閣は総辞職。芦田自身も辞任後逮捕。

吉田茂(1948~1954)

自由党に幣原系を加えて改称した民主自由党が第一党に(第一次保守合同)。6年以上政権を維持。佐藤栄作・池田勇人ら官僚政治家を当選させ、要職に就ける吉田ワンマン体制。民主党から多数を分離・合流させ自由党に改称。第3次吉田内閣ではドッジ・ラインを実施。銀行家ドッジが来日し、インフレを抑えるための財政金融引き締め政策を実施。物価安定と企業の体質改善に寄与。その実施と引き換えに日本は1ドル360円の単一為替レートを与えられ、国際経済への復帰を許される。

鳩山一郎(1954~1956)

在任時の出来事の詳細は後述。政界復帰後は吉田の政権運営に不満を持ち、岸らとともに反吉田派となる。吉田と対照的に苦労人・親しみやすさで高い国民人気。吉田路線からの転換を図る。56年の日ソ共同宣言、国際連合加盟を花道として退任。

石橋湛山(1956~1957)

ひと月ほどで体調を大きく崩し短い任期であったが、57年度予算案として減税積極策を打ち出し、高度成長期の予算の原型を作った。

岸信介(1957~1960)

在任時の出来事の詳細は後述。戦前に満州国建設に携わった大物官僚政治家であり、敗戦後にA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに投獄・公職追放される。53年4月に衆院議員になった後4年足らずで首相となった。60年安保闘争の反発運動を受けて辞任。

戦後初期の共産党

50年1月にソ連が主導する共産主義政党の国際組織コミンフォルムから手ぬるいと批判され、それに反論する「所感派」と賛同する「国際派」に割れる。共産主義弾圧政策レッド・パージにより共産党は地下に潜り、暴力革命路線を先鋭化するようになる。終戦直後には軍国主義批判で党員を集めていたが、49年前後の反共キャンペーンにより印象は著しく悪化し、左派票は社会党に流れることになる。

戦後初期の社会党

社会党も49年衆院選の大敗をきっかけに左派と右派に割れる。左派は階級政党と規定し、革命を目指す。一方で右派は国民政党と規定し、暴力的な共産党とは対抗する姿勢を見せる。日教組、国労、全逓などの官公労組を中心に構成された巨大組織である総評は社会党の左派議員を支援するようになり、その後の社会党の路線を決定づけていく。

戦後初期の政党の変遷

大政翼賛会の解散後、45年末に無産政党議員で日本社会党、保守系議員で日本自由党、その他多数の現職議員で日本進歩党。22年から存在する日本共産党も幹部が出獄し活動開始。翼賛議員が多数在籍する日本進歩党は公職追放で大ダメージを受け46年衆院選では第二党、47年衆院選前に日本自由党の芦田を党首にして日本民主党として再出発。日本社会党・日本共産党は改称なし。日本自由党は、民主自由党(48年)を経て自由党(50年)に。日本民主党は、国民民主党(50年)、日本改新党(52年)を経て再び日本民主党(54年)に。

(感想)

政党の変遷を追うのが多少大変ですが、とりあえず細かな違いはあれど、自由党・民主党は保守、社会党・共産党は革新といった感じですね。個人的に面白かったのは幣原と吉田の共通点、戦前に親英米派の外交官だったという点です。この二人の在任期間に憲法制定があり、その後連立政権の誕生と分裂を経て再び吉田に戻る、と。次項も吉田政権が続きます。

「2 再軍備と講和」

再軍備

49年10月、中国共産党による中華人民共和国が誕生。中ソは日本と日本の同盟国を仮想敵国認定。東西対立が深まる中でアメリカは占領政策を転換し、日本の経済面・軍事面を強化することで東側に対する防波堤に育てる。50年6月、朝鮮戦争開始。GHQは吉田に海上保安官増員・警察予備隊創設を促す。吉田は軍隊再建には慎重。

講和問題

西側諸国との講和を目指す片面講和か、東側諸国も含めての講和を目指す全面講和か、関連して国防の米国依存が争点に。軽武装主義の吉田は片面講和・米国依存、対して左派主導の社会党は全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対の「平和四原則」。51年9月、サンフランシスコ講和会議。吉田は「片面」の講和条約に調印し、日米安保条約にも調印することで西側陣営の立場を明確にする。社会党は条約賛成の右派と反対の左派に分裂。

憲法問題

警察予備隊は52年10月に保安隊、54年7月に自衛隊に改組。反吉田派・第二保守党は改憲・自主防衛派、対して左派社会党・総評は護憲・非武装中立派だったが、吉田は自衛隊が憲法上の「戦力」にはあたらないと説明し、整合性の問題そのものを否定。保守政党は政権維持を目指して1/2以上の議席獲得を目指すが、護憲派野党は与党に憲法改正に必要な2/3をとらせない(つまり1/3以上の議席獲得を目指す)という二重の基準線が生まれる。

(感想)

本項ではこの後の日本の方向性を決定する非常に重要な問題が取り挙げられています。特に国防の米国依存や憲法問題は今でも重要な問題として残り続けていますね。今もし憲法改正の発議が行われたとして、国民投票の結果はどうなるのか、とても興味深いです。

「3 55年体制の成立」

吉田時代の終焉

52年4月、講和条約が発効し主権回復。鳩山・岸らが政界復帰し反吉田派になる。反吉田派の準備が整う前に行った52年「抜き打ち解散」、吉田の失言から両社会党が不信任案を提出し反吉田派が賛成した53年「バカヤロー解散」という2度の衆院選後、第5次吉田内閣は少数与党の不安定政権となる。54年に入ると大規模な贈収賄スキャンダルがあり、鳩山・岸らは自由党を離れて日本民主党を結成する。民主党・両社会党による内閣不信任案に対して吉田は解散総選挙で応戦する構えを見せたが、党内の反発により内閣総辞職を行った。

社会党統一と保守合同

54年12月、鳩山が首相に就任。55年10月に両社会党が再統一したことを受け、同年11月に自由党・民主党が合流し自由民主党が結成される。自民党総裁は当面空席だったが、ライバル緒方の死後に鳩山が就任し、初代幹事長は岸が就任。吉田とその側近は鳩山の首相退任まで新党に参加しなかったため、旧民主党の色が濃い。参議院でも衆議院と同様に55年体制(1と2分の1体制)となる。55年には共産党でも所感派と国際派の和解が進み、武装闘争路線を放棄する。この共産党穏健化に不満を持った急進的活動家は独自の組織を立ち上げ、新左翼運動に走ることとなる。

鳩山から岸へ

鳩山は大政党有利の小選挙区制を提案するが、当然社会党が反対し頓挫。衆院選でも2/3を越えず、憲法問題への意欲を失う。56年10月、日ソ共同宣言。向米一辺倒の吉田への対抗、スターリン死後に他国との関係改善を模索するソ連の接近もあり成立。56年12月、国際連合に加盟。同月、初の競争的な総裁選があり、派閥分断の契機となる。勝利した石橋湛山は体調を大きく崩し、首相臨時代理の岸外相が引き継ぐ。岸も吉田路線からの転換を目指したが、憲法改正は叶わず、日米安保条約の改定に注力するようになる。

経済計画と社会保障

吉田の自由主義経済からの転換を目指した鳩山・岸は経済計画・社会保障の導入を試みる。岸は鳩山の経済自立五か年計画を継承発展させ、新長期経済計画(国民所得倍増計画の原型)を決定。岸は社会保障の制度作りとして、58年12月の国民健康保険法改正、59年4月の国民年金法制定を実行し、これらは60年代初頭に国民皆保険・皆年金が実現されるための基盤となった。

(感想)

今までは吉田→鳩山→(石橋)→岸と一続きにしか見えなかったものが、ここで吉田 vs 鳩山・岸という明確な対立構造に整理され、わかりやすくなりました。この対立構造は一方は保守本流、他方は保守傍流として後の派閥形成にも関わってきます。そして前政権からの転換というのは多く出てくる一種のパターンです。それでうまくいくこともあれば、そうでないこともあり、当然ではありますが単純な二項対立で政治を理解することはできませんね。

「4 激化する保革対立」

逆コース

逆コースとは占領改革の成果を覆し、戦前体制に回帰しようとする保守陣営による運動である。51年5月にはGHQに認められ、本格的に見直しを行う。焦点は治安政策で、警察や地方自治に関して中央集権化を進める。教育委員・教員の管理や道徳教育が開始。日本国憲法の全面改正論や自主憲法制定論が広がり、天皇の元首化と国事行為の拡大などが主張された。一方で革新陣営は占領改革擁護・急進的改革を求める。

保守と革新

55年には保守が自民党に、革新が社会党にほぼ一本化された。自民党は経団連を中心とする財界、社会党は総評を中心とする労働組合から支援を得る。50年代の労使間の亀裂は非常に深く、日経連 vs 総評の階級闘争が自民党 vs 社会党の政治世界に反映された。しかし保革の分断を労使だけで理解するのは単純化しすぎであり、自民党は小規模自営商工業者・農民の旧中間層を基盤とし、社会党はブルーカラーだけでなく、都市高学歴層やホワイトカラー層(新中間層)から多く票を得ていたことが知られる。新旧中間層の違いは階級利益よりも文化・価値観の違いに基づく。旧中間層は伝統主義的価値観のため自民党支持、新中間層は革命を求めたのではなく、逆コース志向を嫌ったため社会党支持。保革対立は岸内閣時に先鋭化。警職法改正案(警察力強化)は逆コースの最たるもので社会党・総評は猛反発。法案は廃案となり、その過程で自民党内の反岸運動が盛り上がり、総裁選で再選するも反主流派の松村謙三に多くの票(吉田、鳩山、石橋を含む)が集まる。

60年安保闘争

保革対立の頂点が60年安保。岸は旧安保が対米従属的であるとして対等な内容に改定しようとした。岸から見た旧安保の問題点は米国の対日防衛義務が不明確で、日本の内乱に米軍が出動できる点である。就任まもない57年6月に訪米し、見直しを要請。党内の取りまとめに苦労しつつ60年1月に新条約調印。警察による野党排除や強行採決により承認されるも、マスコミの影響で大衆の反対運動。

三池争議

三井三池炭鉱は経営状況悪化を受け、59年に大規模な人員整理が計画され、労組は無期限ストに入って抵抗。会社側もロックアウト(労務提供拒否)で対抗し全面対決。61年11月にスト解除で組合側敗北。「総資本総対総労働のたたかい」と呼ばれる。

戦後憲法体制の成立

保革対立は保守陣営に衝撃を与え、岸退陣後に逆コース運動は下火になる。言い換えれば、50年代までに形成された諸制度が戦後政治のルールとして固定化していくことを意味する。憲法が強力な逆コース運動があっても変わらなかったことは戦後日本が自由民主主義体制であることを保証した。

(感想)

一番興味深かったのは保革対立が労使対立だけでなく、新旧中間層の文化・価値観の対立であった点です。革新に投票したからといって革命を望んでいる訳ではないというのは現代的な感覚からすれば当たり前のことですが、どうしても昔の話だからと労使の対立構造として見てしまいがちだなと思います。60年安保闘争の何かに熱中したい学生たちが積極的に学生運動にのめりこむ様子は現代では考えにくいですね。熱き闘争の舞台が現実からネットに移っただけなのかもしれませんが。

まとめ

要約したつもりがかなり長くなってしまいました笑。とりあえずは1945年~1960年の戦後初期の大まかな流れをつかめたかなと思います。(2)ではいよいよ経済的には高度成長期、政治的には三角大福中時代に突入します。(2)を出す前に次の本に行ってしまう可能性もありますが、焦らずゆっくりやっていきたいと思います。それでは、読んでいただきありがとうございました!

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