見出し画像

【掌編小説】バリ島へ羽ばたく

(あらすじ) 
とある街に住む住人たちのお話です。一話完結で、何人かの日常について書く予定です。

どこかすれ違っている人たちの日常を垣間見れたら、いいのにと思って書てみた。


藤原 祐介(22歳)の場合

 飲んでも飲んでも喉の渇きはなくならない。薄い壁から入り込む外気を暖めようと効かせたエアコンのせいだけではないとわかっていた。空き缶を放り投げ、冷蔵庫から三本目の缶ビールを取り出す。ぷしゅう、と小気味良い音を立ててプルタブを開け、一気に流し込んだ。

大きくため息をつき、こんなふうに滅入っている時は酔いの回らない体質を恨みたくなる。金があれば一滴も余すことなく女と酒に使い、肝臓を悪くしてあっけなくこの世を去った父親から受け継がれたものだ。

飲みかけの缶ビールを床に置き、乱れた布団の上で寝転んだ。ぼんやりと天井を見つめながらむしゃくしゃした感情をどうしたらいいのだろうか、と考える。

卒業まであと僅かであるにもかかわらず、内定をもらえる気配はなかった。ご健闘をお祈りいたします、といった定型文章を数えきれないほど受け取るうちに焦りは消え、どこか開き直っていた。会社勤めをするという現実が滲んで見えることを採用担当者に見透かされているなら、文句を言えないのかもしれないが。

採用を勝ち取り、頭や手足をフル稼働させ、経済を押し上げる生産活動の一部としての立場を得ることを、この社会は真っ当としているようだ。家庭を持ち、子供を産めば、よくできましたポン、と花丸がもらえる。そんな社会通念に取り込まれた認識こそ恐ろしいのではないか。

そう頭を巡るのは、周囲から取り残された立場を正当化したいだけか。

死んだ男が小馬鹿にして笑う顔が浮かび、
腹の中で舌打ちをした。

むしゃくしゃがおさまらず、起き上がって部屋着を適当に着替え、颯爽とアパートを出た。

出てすぐに寺があり、その通りを左に曲がると十字路が現れる。南に進めば住宅街に佇む小さな成田東図書館があり、反対方面の青梅街道に向かえば、ちらほらと店の灯りが見える。歩きながら赤提灯の前で足を止めた。新しくできた居酒屋のようで以前通ったときは客でいっぱいだった。扉のガラス越しにテレビを見上げる丸い背中は時間を持て余しているようだ。
「とり由」と書かれた看板を横目に、俺は思い切って扉を押した。


テレビを見ていた年のいった店主が振り返り、いらっしゃい、とくしゃりとした笑顔で迎えた。縦長の店内はカウンター八席のこじんまりとした感じで、真ん中の席に腰を下ろす。すると目の前に表情を変えることなく立っている女性と目が合った。

この居酒屋と乖離したオーラの、日本人形のような顔立ちに、少女のような華奢な体型で緑色の髪を耳元でくるくるとカールさせている。
やはり表情を変えることなく、どうぞ、とか細い声を出しながら水を置いた。アニメでありがちな転生した異世界の喫茶店とかにいそうだ、と考えながら水を飲み干した。

とり由という店名ながら、ここはラーメンが売りらしい。十種類以上の中から目にしたことのない常温ラーメンというものとビールを注文した。メニューを尋ねる店主の横で女性店員がテレビを見上げている。

水で冷ました麺に、ニラやネギ、どぼんと卵の白身が浮いた常温のスープが盛られた器が置かれる。ビールを飲みながら麺を啜り、さっぱりと食べやすいその味に夢中になった。

「今日ははじめてですよね?」

再び暇となった店主に話しかけられる。

「はい、初めてです。すぐそこなんです、アパート。」
「そうなんだ。来てくれてありがとう。よかったら、また来てよ。お客さんまだ若いよね?まりちゃんと同じぐらい?」

店主は女性店員に視線を向けた。半開きの口から言葉は聞こえず、テレビから流れる音が三人を包み込む。
「俺、二十二歳です。大学四年生っす。」
再び、沈黙。
しばらくして、微かな声で返ってくる。
「・・・わたし、二十六、です。」
「そうなんですね、同じぐらいかと思いました。」
まりちゃんは目を泳がせながら、そうですか、とボソッと言うだけだった。
「まりちゃん、もう時間だから上がっていいよ。」
気遣うように店主が促すと、小さく頷いてそそくさと奥の部屋へと入っていった。
「お客さんごめんね、まりちゃんまだ入ったばかりでね。」

いえ、と答えながら、時間を持て余すようなこの店で、人を雇う必要があるのだろうかとふわふわしながら考える。

ビールを何杯か飲むうちにようやく酔いが回ってきた。店主は元々、北口で焼き鳥屋をやっており、何年か違う仕事をしたのち、閑静なこの住宅街で再び店をはじめたらしい。
七十歳越えての再出発だよ、ずっと若い君は何だってできるさと、自分の状況について目元を緩ませながら、そんなようなことを言っていた、ような気がする。

うぅと、頭を抱えながら起き上がり、二日酔いに痛みながら昨夜の出来事をなぞった。そんなようなことを言っていた気がするが、かなり酔っていたので大抵覚えていなかった。


けれど体も胸のうちも清々しかった。なんでも出来るような気分だ。複雑に絡まっていたものがすっかりと消え、万能感に満ちていた。その勢いのままエントリーシートと履歴書を書き上げ、企業に送った。後日電話があり、水曜日午後二時に面接することになったのだった。


その帰路、小さな公園のブランコに黒いスーツのまま揺られ、打ちひしがれていた。右手に持った缶チューハイを一気に流し込み、深いため息をついてポール時計を見つめる。ポールの半分のところまで空は水色で、そこから下は西日が伸び、グラデーションをつくりあげている。その眩しい光を睨みつけながら、酒を飲み干した。


ぼんやりとしたまま公園に入ってくる人物に目をとめた。
緑色の三つ編みおさげに、ドット柄のビビットなブルーのワンピースに身を包んでいるのは、とり由のまりちゃんであった。


まりちゃんは入口付近のベンチに腰掛けてペットボトルを口にし、一息ついた。俺は彼女へと近づき、どおも、と軽く頭を下げた。覚えていないか、それとも立ち去ってしまうだろうか。そう不安に思っていたが、まりちゃんはどうも、と言ってぺこっと頭を下げた。

「あの、たまたま、俺、面接の帰りなんです。・・・よかったら隣座ってもいいですか?」

十秒間の沈黙のあと、まりちゃんは頷いて右に寄ってくれた。遠慮がちに左端に腰掛け、持っていた空き缶を見つめた。何だか気恥ずかしくなって、適当に話をふった。

「お洒落ですね。ファッション好きなんですか?」

はい、と相変わらず声は小さいものの、アーモンド形の瞳が光を帯びた。

「ファッションの専門学校にいたんです。今日も高円寺で古着屋巡りしてきた帰りです。」
「高円寺といえば古着屋ですよね。」
「古着屋で買いますか?」
「なかなか選ぶのが難しいので、買わないですかね。他にもどこか行ったんですか?」
「アメリカアニメのグッズ専門店があって、そこにも行きました。」
「それは面白そうだ。」

まりちゃんは服飾の専門学校を卒業後、原宿にあるアパレル会社で非正規で事務職をしていたが、半年前に退職した。
今は単発の仕事と、とり由で働きながら、祐天寺にあるヨガ教室に通い、そのルーツを辿るうちにアーユルヴェーダに目覚め、来月ヨガ教室の仲間たちとバリ島のウブドに行くという。

遠い記憶と錯覚するような蜃気楼のなかに情熱的な南国の地が浮かび上がった。

まりちゃんは可愛い。浮世離れ感も合わせてキュートだ。

触れたいとか、いやらしい下心とか、そういう性的な対象としてではなく、それを超越した魅力があった。だから話が弾むうち、純粋な気持ちで今度飲みにいきませんか、と誘っていた。

まりちゃんは少し警戒した様子だったので、あ、勿論ご飯でも、と訂正した。
すると彼女は口元を緩めた。
「はい、行きましょうか。就活、うまくいくといいね。」
「はい、ありがとうございます。」
まりさん、恥ずかしながら彼女の名前を呼んでみた。
「インドネシア料理って、フォーですか?パッタイですか?」
「ふふ、どっちも違う。ナシゴレンとかミーゴレン。バビグリンとかナシアヤムも。」

ナシゴレントカミーゴレン、バビグリントカナシアヤムモ。

馴染みのない名称が呪文のように渦巻いた。

「阿佐ヶ谷にあるよ。そこに行ってみる?」
「ええ!それなら、そこに行きましょう!」
こうして土曜日の夜7時にその店で会うことになった。

一階の小料理屋の前にまりちゃんがいた。今回は緑のビンテージシャツにジーンズという恰好だ。薄暗い階段を上がり、扉を押すと南国を思わせる赤やオレンジのランプの灯りに迎えられた。嗅いだことのない不思議なお香が漂い、スピリチュアルなガムラン音楽が流れている。

窓際の席に横並びに座り、メニューを広げた。俺は、インドネシアの炒飯と書かれたナシゴレンを、まりちゃんは豚肉とご飯のバビグリンをそれぞれ注文した。

パール商店街を歩く人々のつむじを見つめながら、打楽器の響きに耳を傾けたり、ぽつぽつと他愛のない話をしているうちに、インドネシア人の店員が皿を置いた。
丸くかたどられたご飯の上に目玉焼きがぽん、と乗っている。柔らかい黄身をスプーンでつつくと、ご飯に浸みていった。黄身の絡んだ醤油ダレのご飯は甘口で、咀嚼し終わる頃には辛さへと変わり、舌を刺激した。

今まで食べたことのない味に夢中になり、あっという間に平らげる。いつの間にか、ぺろりとバビグリンを食べ終えていたまりちゃんは、おしぼりでゆったりと口を拭っていた。


気がつけば季節は春を迎え、卒業式を間近に控えていた。結局、東京での就職は決まらず、不本意ながら地元の小さな港町の、水産加工食品の製造工場に勤めることになった。そこの専務と知り合いだった親父の縁故だと思うと、プライドが許し難かったが、ここでフリーター生活をしながら就職をする覚悟も持てなかった。


扉を開けると、テレビに背を向けていたマスターがしわくちゃな笑顔で迎えてくれた。


あれからまりちゃんとは会っていない。連絡先を知っているわけではないが、先月の中旬、バリ島に行ってからとっくに戻ってきているはずだった。例えば商店街ですれ違ったり、阿佐ヶ谷駅でばったり会えることを期待していたが、会うことはなかった。


この街を出る前に挨拶をしたい。そのため、とり由に淡い期待を寄せてやって来た。湯気の立たない白い器が置かれ、箸で麺を持ち上げて啜った。前より少し味が薄い気がした。

「お客さん久しぶりだね。名前はえーと・・・。」
「藤原です。最後にどうしてもこのラーメンを食べたくて。」
「ん、最後?」
「実は俺、地元に戻るんです。福井県の小さな港町なんですけど。」
「そうかい。それで最後なんだね。」
「あの、マスター、まりさんはバリ島から戻ってきたんですよね?」

思い切ってそう尋ねると、マスターは窪んだ二重を大きく広げた。

「この間手紙が届いてね。まりちゃん、そのまましばらくあっちにいるみたいだよ。ヨガの修行をして先生になるんだって。」

いやぁ、すごいよねぇ~とマスターはにこにこしながら話を続けている。我に返り、段々と腑に落ちていった。そして、もう会えないかと思うと、微かな寂しさが胸に染みていった。
口元を緩めてからビールジョッキを持ち上げ、口に運ぶ。それから音を立てて麺を啜った。


陰気な過去が染みついた閉鎖的な町に戻り、
しばらくは気持ちが滅入っていた。

しぶしぶ就職した会社で働き出し、次第に、自分でも意外だったのだが、仕事にのめり込んでいった。

それから五年後、同じ社員であった専務の娘と結婚した。子供を二人授かり、一軒家を建て、今は幸せに暮らしている。母は孫たちを溺愛し、毎日のように家にやって来た。かつて手に負えなかったあの男にも、この子たちを会わせてやりたかったと、ムチムチした赤ん坊を腕に抱えながら思った。

今でもたまに、まりちゃんのことを思い出す。この世の中の枠組みにとらわれず、自分らしさを失うことなく堂々としていたまりちゃん。

俺は彼女に憧れていたのだ。

別れを言えなかった寂しさと同時に、まりちゃんは広い世界へと羽ばたくべき人だったのだと、そう思える。

川のせせらぎと共に、熱帯植物の緑から差し込む光のなかで手のひらを合わせ、片足を曲げて右足だけでぴんと立ち、ポーズを決めるまりちゃんが浮かんで、思わず笑みが零れた。

おしまい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?