【コンビニ人間】再読・普通と異常の境目はあるの?
「コンビニ人間」再読してみた。
なぜかというと、この本の主人公に似たところのある女性と関わり合いになる機会があり、大いに困惑したからだ。
「古倉恵子」はASDと思われる発達障害的な人物に描かれている。
小学校では問題を起こし、それ以降は「生きていくための一番合理的な処世術」として、ひたすら黙ることに専念していた。
そんな恵子が大学1年生のときにコンビニの新規店舗のバイトに募集し採用される。
コンビニには全てマニュアルがある。笑顔の作り方、挨拶の仕方、トラブル対応…。自分の基準に従った言動をして気味悪がられていた恵子にとって、マニュアル通りにやれば褒められる状況はありがたい。次第に先輩の口調も真似して取り入れ、コンビニ世界の歯車となり覚醒したかのようにイキイキと働き始める。
やれ、良かったじゃん!とはいかないのが社会というもの。恵子は30代後半で非正規雇用のコンビニ勤務。結婚もしていないので、周りからは心配という名のお節介をされ暗に見下されている。
社会の中で「人間のメス」として見られること。シンプルにつらいと思う。それは定型の人間でも同じ悩みのように感じる。結婚しないの?子ども作らないの?という他人からの問いに無意識的に答えるように皆婚活やら妊活やらをがんばる。
「生き方はそれぞれ」「人の生き方に口を出さない」という考え方が定着し始めたのは極最近だし、たぶん都市部以外ではまだまだ保守的な考え方を持つ人たちがいるだろう。
恵子はクズ男をペットのように飼い始める。え?もうここまで来ると全く理解不能だった。「男と暮らしてる」と周りに話すと、目の色変えて「よかったねー!!」と言われるので社会に普通に属するような気ができるからだ。
まず、この男がマジで終わってる。自分も無職で借金があり仕事も続かないくせに、恵子にボロクソ言う。
もう絶句です…どうして自分を見下す男を「飼う」必要があるの?流石に猫でも飼った方がずっとずっとマシだわ。…という感じで、普通になりたくて努力して努力して、でも普通からどんどんズレてしまう恵子。
この本を「発達障害的特質を持った人」vs「定型の人」という構造にしてしまうのはあまりに乱暴かも。私の中では恵子的側面と普通的な面が入り混じっている。しかし、限りなく周りに合わせて普通に溶け込みたい人もいるだろうし、アーティスト気質というのか「俺は普通じゃない」ことに価値を見出している人もいるだろう。
実は「正常(普通)と異常(変)」の間に明確な線引きはなく、グラデーションになっているのではないか。
この本での正常の線引きポイントは
・正規社員として働く
・そこそこの恋愛経験がある
・結婚している
・子どもがいる
正直、全部のハードルをクリアするのは今の時代大変すぎやしないか?
2016年に刊行された「コンビニ人間」の時期と比べて、急激に生涯未婚率も増加している。将来改善される見込みもないので、恵子のような人が普通になる可能性はかなり高いと思われる。
この本は、あと20年もすると「当時の価値観にびっくりする」本になるのかもしれない。
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