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<地政学>開戦前夜!?レバノンの複雑すぎる政情について語る

 久しぶりに地政学記事である。筆者はこの手の話題について語っている時が一番テンションが高い。キャリア論の話になるとどうしても仕事を思い出して憂鬱になってしまう。今回はリクエストのあったレバノンの地政学について語りたいと思う。

 レバノンは中東にある小国である。それにもかかわらずレバノンは伝統的に中東で独特の存在感を放ってきた。さらに複雑極まりない中東情勢の中でもレバノンは際立って複雑で、筆者もレバノンについてはあまり言及してこなかった。レバノンは無数の宗派が割拠するモザイク国家であり、中東の中でも極めて特殊な国家である。この国はここ数年深刻な経済危機に見舞われており、しかも現在はイスラエルとの戦争へのカウントダウンが始まっている。今回はそんな複雑すぎるレバノンの地政学について語ってみたいと思う。

レバノンってどんな国?

 レバノンという国の概略について説明していこう。レバノンは東地中海に位置する小国で、隣接する国はシリアとイスラエルだけだ。レバノンの国名は国土の中央を走るレバノン山脈から取られている。

 レバノンの国の歴史は古いとも言えるし、新しいとも言える。この地域は世界で最も早くに文明の花開いた「肥沃な三日月地帯」の一部であり、古代から都市国家が存在してきた。首都ベイルートは5000年前から存在する都市らしい。日本は旧石器時代だ。中東の歴史の深さがうかがえるだろう。レバノンの周辺はレバノン杉が豊富に生えており、この木材を使ってフェニキア人は大航海を行った。一説には喜望峰まで行ったとも言われている。ローマ共和国と刃を交えたことで知られるカルタゴもフェニキア人の植民市が大きくなったものである。

 一方、レバノン国家の歴史は比較的新しいとも言える。中東の国家全般に言えることだが、この地域は歴史的に国境が不安定で、多数の遊牧民や帝国によって征服を受けて来た。彼らが話すアラビア語も元はアラビア半島の遊牧民の征服によって持ち込まれたものだ。近世から近代においてはオスマン帝国の支配下にあり、特に政治勢力として存在感を発揮することはなかった。現在の中東国家は大半が第一次世界大戦後にイギリスとフランスよって線引きされた人工的な国家であり、国民国家としての歴史は浅い。日本やヨーロッパの国が何百年も前からまとまりを持っていたのに対し、中東国家の結束は弱いままだ。

 フランスは19世紀を通してこの地域への進出を目論んでおり、ムハンマド・アリーを支援するなどの行為を通して中東地域に影響力を行使していた。イギリスの妨害によってオスマン帝国への進出はうまく行かなかったが、第一次世界大戦後にチャンスが訪れた。フランスはサイクス・ピコ協定によって現在のシリアとレバノンに相当する地域を割譲され、これ幸いと植民地化に着手した。フランスは新しく獲得した領土のうち、キリスト教徒が多かった地域を切り離し、レバノンという名前を付けた。イラクやヨルダンといった国と同様、レバノンは極めて人工的な国家ということになる。フランスはキリスト教徒と関係を結ぶことで地域への影響力を行使していたこともあり、レバノンはフランスとの強い結びつきを持っていた。

 東地中海に面していたことや、キリスト教徒が多かったことが理由なのか、レバノンはアラブ世界の中では金融センターとして発展している国である。オイルマネーの影響がなかったらレバノンはアラブ世界で最も豊かな国と言えるだろう。内戦以前は中進国と言っても良いレベルであった。レバノンの住民はアラブ世界の中では比較的開明的で、原理主義的な傾向は強くない。

分裂したモザイク国家

 レバノンの特徴はなにより宗派社会であることだろう。民族的には皆アラブ人なのだが、この地域では民族よりも宗教の方が遥かに重要である。レバノン社会では無数の宗派によって小集団が形成されており、全てが宗派間の取り決めとバランスによって成立しているのだ。レバノンという国民国家は存在しておらず、宗派間の不穏な連携関係で何とか政治も経済も動いている。

 レバノンの特殊な民族構成の原因は歴史と地理である。この地域は歴史が深く、聖書の時代からのこる豊かな文化が残っていた。その分、各勢力には譲れない歴史が存在し、複雑な関係が生まれている。また、レバノンの山がちな地形はこうした小集団が生き残るのを助けてきた。

 レバノンの特徴的な点は中東で唯一キリスト教が支配的な勢力であることだ。中世時点では中東一円にキリスト教が広く分布していたのだが、イスラム教徒による征服でキリスト教徒はどんどん少なくなってしまった。それでも近代まで中東の人口の20%ほどはキリスト教徒だったと言われるが、多くはヨーロッパへと移住してしまったらしい。イラクにはアッシリア正教徒が居住していたが多くはオスマン帝国末期に虐殺されてしまった。人口動態の関係でイスラム教徒の方が多くなっていったという事情もある。ちなみに現在の中東で比較的キリスト教徒が多く住んでいる国はシリアとエジプトで、それぞれ人口の10%ほどを占めている。

 現在のレバノンは人口動態の影響でイスラム教徒の方が人数が多くなっていると言われるが、レバノンの宗派別の人口統計は取られていないので不明である。この国においては正確な人口統計事態が宗派間のバランスを崩す可能性があるので、慎重な取り扱いが求められている。

 レバノンの宗派を細かく見ていくときりがないが、抑えるべき勢力は3つだ。それは①キリスト教マロン派②イスラム教スンニ派③イスラム教シーア派、である。この三者の三つ巴関係を考えればレバノンの複雑な情勢を簡略化できるだろう。

 キリスト教マロン派は乱暴に言えばカトリックである。かの有名なカルロス・ゴーンはキリスト教マロン派だ。彼らは伝統的にフランスとの関係が深い。19世紀の帝国主義時代にフランスは同じカトリック系のマロン派を支援することでオスマン帝国への介入を図った。ロシア帝国は同様に東方正教会の保護と称してオスマン帝国に介入していった。イギリスはプロテスタント国だが、この地域にプロテスタントがほとんど存在しなかったので足がかりがなかった。そのためイギリスはユダヤ人をはじめとしたマイノリティと組むなど、一貫性の無い行動が目立った。キリスト教マロン派はレバノンの中では比較的イスラエルへ好意的であり、何度か手を組んでいる。

 イスラム教シーア派はシリアやイランといったシーア派枢軸と関係が深く、両者の支援によって強力な武装勢力を形成している。その中でも最強の勢力が「ヒズボラ」である。イスラム教スンニ派は中東の最大勢力だが、レバノンにおいてもそれなりの数が存在する。スンニ派を語るうえで無視できないのはパレスチナ難民だ。彼らの存在が悲惨な内戦の引き金となっていった。スンニ派はサウジアラビアやPLOと関係が深く、親シリア勢力とは対立関係にある。ジハード主義者の多くもスンニ派だ。

 他の一大勢力としてイスラム教ドルーズ派が存在する。ドルーズ派はファーティマ朝の変わり者の王が始めたカルト宗教のような宗派である。この宗派は一応シーア派から派生したとされているが、その教義はイスラム教からかけ離れている。何しろコーランを読まないし、メッカへの巡礼も礼拝もしないのだ。断食もしないし、コーランも読まない。おまけに輪廻転生を信奉している。正直、イスラム教とは別の宗教と言っても良いだろう。このあたりは隣国シリアのアサド政権を支えるアラウィ派と似ている。

 隣国シリアのアサド政権は少数宗派のアラウィ派とキリスト教徒の支持によって支えられているのだが、少数宗派繋がりでドルーズ派もシリア・アサド政権との繋がりが深い。そして両者はイランをはじめとするシーア派勢力と親密な関係にある。基本的にドルーズ派はシーア派に歩調を合わせて動いていると考えても大きな問題はない。

 なお、奇妙なことにイスラエルのドルーズ派はユダヤ人と「血の盟約」を結んでおり、強固な同盟関係にある。イスラエルで徴兵義務があるのはユダヤ人とドルーズ派だけだ。シリア・レバノンと同様にイスラム教スンニ派への対抗意識が「敵の敵は味方」とばかりにイスラエルへの協力を産んだのである。更にややこしいことに同じドルーズ派でも1967年にシリアからイスラエルへと変更されたゴラン高原のドルーズ派はイスラエルに敵対的らしい。

レバノンの地政学

 パレスチナ解放のために戦っているPLOはユダヤ人の排除を公然と掲げているわけではなく、パレスチナにレバノンのような宗派共存型の世俗国家を樹立することが綱領である。こう書くとレバノンが平和の国のような雰囲気になるが、実際のレバノンは1975年から1991年にかけて血みどろの内戦を経験した。人口比で考えると戦後中東で最も陰惨な戦争だったことになる。おまけにその後も定期的にテロや紛争に見舞われている。パレスチナ紛争と同じくらいレバノンの政情は不安定だ。

 レバノンの地政学的特徴はこの国がイスラエルとシリアの緩衝地帯となっていることである。レバノンはこの2つの隣国によって散々な扱いをされてきた。2つしか隣国が無いにも関わらず、レバノンは複雑な地政学的環境に置かれてきた。

 イスラエルは二度に渡ってレバノンに進行し、20年に渡って南部を占領統治したこともある。その後もイスラエルは幾度となくレバノンに攻撃をしかけてきた。レバノンの国民感情はイスラエルにきわめてシビアだが、無理もないだろう。

 しかしより深刻なのはシリアとの関係の方である。シリアは先述の歴史的経緯によってレバノンを自国の一部として考えており、常にレバノンを自国に組み込もうとしてきた。レバノンはシリアよりも遥かに小さいが、この国は金融センターとして中東の中では豊かな方であるため、レバノンの経済規模はシリアとそこまで変わらず、シリアにとっての経済的な価値は大きい。レバノンはシリアの影響力によって国内が引き裂かれており、シリアの諜報機関によって支配されていた歴史も長かった。2011年シリア内戦で隣国からの圧力が和らぐとレバノンはやや自由になったが、だからといって様々な勢力がこの国を見逃すはずはなく、宗派間の勢力均衡は続いている。

 このイスラエルとシリアという好ましくない隣国の影響を受け、レバノンは引き裂かれてきた。それが表面化したのがレバノン内戦である。レバノンは小国である上に国内が分裂しており、その上経済的な重要性がそこそこ存在するため、「バトルアリーナ化」しやすい。レバノンを舞台に常に地域の勢力は争っており、代理戦争が発生してきたのである。

内戦勃発

 近現代の武力紛争で最も複雑な経緯をたどった戦いは何かと聞かれたら筆者は迷わず「パレスチナ紛争」「シリア内戦」「レバノン内戦」の3つを挙げたい。これらの紛争は極めて複雑で、なかなか一貫したストーリーを把握するのが難しいのである。いずれも隣接するレバント地域の国である。

 第二次世界大戦でフランスが衰退し、植民地帝国が崩壊すると、シリアとレバノンは独立の道を歩んだ。第二次世界大戦後の脱植民地化の流れである。同様にエジプトやイラクからも英軍が撤退し、中東地域はオスマン帝国の崩壊から初めて主権国家の群れとなったことになる。これらの地域は歴史こそ古いもののいずれも英仏に勝手に引かれた国境線の上に成り立っており、近代国家としては極めて脆弱だった。

 レバノンは先述の通り宗派によって分裂した社会だったので、国家の運営も宗派間のバランスによって行われていた。大統領はマロン派、首相はスンニ派といったように宗派によって政府のポストも左右されていた。このような慣例は中東の中でも特殊なものである。

 このまま平穏のまま時が過ぎ去れば良かったのだが、そうは行かない。レバノンは1948年の第一次中東戦争でイスラエルに侵攻したが、レバノンは小規模な戦闘を行ったにすぎなかった。より深刻だったのは1958年の内乱の方だ。エジプトで発生したナセルの革命に呼応してイスラム教左派が反乱を起こし、キリスト教マロン派と戦争になった。この戦いはアイゼンハワー政権が米軍をレバノンに投入したことで鎮圧された。

 危うい平和ではあったが、この時代のレバノンはそこまで悪い時代ではなかった。レバノンは中東の金融センターとして繁栄しており、おそらくアラブ世界では最も先進的な国だった。首都ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれたものだ。レバノンの一人当たりGDPは中進国の水準に達しており、国のサイズが極めて小さいにも関わらず、それなりの存在感を放っていた。「ベイルート」という都市名はダマスカスやバグダットに比べてそこまでマイナーとも言えないのではないか。少なくとも1960年代まではそうだった。

 この危うい平和を崩したのがパレスチナ難民である。パレスチナ難民は隣国のレバノンに大量に流入しており、特に1970年のヨルダン内戦でPLOがヨルダンを追放されてからはPLOは大手を振ってレバノンに独自王国を築くようになった。レバノン国軍は宗派社会という特殊な国柄の影響で極めて弱体であり、ほとんどPLOの活動を抑制することができなかった。PLOはレバノン国境からイスラエルに戦争をしかけ、イスラエルは報復としてレバノン領内に堂々と攻撃をしかけていた。

 パレスチナ難民の存在によってそれまでレバノンにあった宗派間の均衡は崩壊してしまった。これにより始まったのが1975年から1991年まで続くレバノン内戦である。レバノン内戦の経緯は非常に複雑であるが、先程も述べた①キリスト教マロン派②イスラム教スンニ派③イスラム教シーア派、という三大勢力の基本構造は押さえておきたい。①のマロン派は西側諸国やイスラエルに近く、②のイスラム教スンニ派はPLOとアラブ諸国に近く、③のイスラム教シーア派はシリアとイランに親和的だった。ここを軸に考えれば比較的簡便にレバノン内戦を説明することができる。

 最初に内戦の火蓋を切ったのはPLOとマロン派だった。PLOはレバノン内部に勝手に根拠地を作り、イスラエルへの攻撃を繰り返していたため、レバノンでの評判が悪かった。日本赤軍メンバーがレバノンに根拠地を置いていたのもPLOとの協力関係のおかげである。マロン派とPLOの衝突は瞬く間に全面内戦に発展した。

 ここに介入してきたのはシリアだ。シリアは平和維持と称して大軍を送り込んできた。これによりマロン派は沈黙を強いられたが、一方でシリアはPLOとも対立関係にあり、親シリア勢力とPLOの間での戦闘が始まった。更に言うとシリアはマロン派のPLOへの攻撃をも支援したときもあった。PLOは②の陣営なのに対し、シリアは③の陣営なので、対立関係にあったのだ。

 その後、マロン派とシリアの緊張が高まると、今度はマロン派の民兵はイスラエルの介入を誘発することを考え始めた。PLOがイスラエルへの攻撃おを続けていたこともあって、イスラエルは北方の脅威に備えるためにレバノン介入を目論む。1978年のリタニ作戦でイスラエルはレバノン南部への介入を開始した。ここからイスラエルとマロン派との同盟関係が始まる。

 リタニ作戦では不十分だと考えたイスラエルは1982年にレバノンへ全面侵攻し、シリア軍と直接刃を交えることになった。これが第一次レバノン戦争だ。これによりシリア軍は壊滅してしまった。国際社会がレバノンへ平和維持軍を送り込み、アメリカ軍がレバノンへ駐留することになった。イスラエルはレバノン南部に占領統治を敷き、親イスラエルのマロン派勢力を根付かせようとしていた。サブラ・シャティーラの虐殺でイスラエルに支援されたマロン派の民兵がパレスチナ難民2000人を虐殺する事件が起こると、イスラエルは国際的批判にさらされた。PLOはレバノンに本部を置くのをやめ、チュニジアに移転するようになった。

 当時、東方のイランではイスラム革命が発生しており、イランはイラクと大戦争を繰り広げていた。孤立したイランは同じく地域で孤立し、イラクと敵対関係にあったシリアと手を組むことになった。この流れの中でそれまで地味だったシーア派の武装組織が生まれることになった。世俗主義のシリアが支援した組織は「アマル」であり、原理主義のイランが支援した組織は「ヒズボラ」である。両者はしばしば戦闘を繰り返していたが、イランとシリアの結びつきが強くなり、レバノン南部でのゲリラ戦が激しくなるにつれてヒズボラはどんどん強大化していった。

 この時代のレバノンはテロリストのメッカとなっていた。レバノンは分裂した脆弱国家ではあるが、テロリストの基地にできるくらいは豊かな国だったので、基地を作るのにうってつけだったからだ。PLOは日本赤軍はもちろん、PFLPとかアブ・ニダルといった凶悪な組織もレバノンを根拠地にイスラエルや西側へのテロを繰り返していた。「カサブランカ」のような立ち位置だった。

 そうしたテロ組織の中でも最強となったのがヒズボラだ。おそらく現存する世界のテロ組織の中では最も有能なのではないかと思われる。ヒズボラはイスラエルのレバノン占領に反対し、ゲリラ戦を繰り返した。イスラエルはヒズボラの反乱にほとほと手を焼いていた。ヒズボラは世界中でハイジャックや爆破事件を繰り返し、西側諸国に深刻な脅威を与えていた。国連平和維持軍の西洋人もしばしば誘拐され、人質に取られていた。ヒズボラの起こしたテロの中でも最大のものは1983年のベイルート海兵隊宿舎爆破事件である。自動車爆弾による自爆テロで米仏軍300人以上が死亡し、これが原因で国連軍はレバノンから撤退することになった。他にもヒズボラは数十人規模の自爆テロを繰り返しており、これらの効果が絶大であったことから、中東地域において自爆攻撃を根付かせる原因となった。

 1980年代に入るとレバノンは無数の小集団が群雄割拠している状態になっていた。イスラエルはレバノンへの影響力行使を諦め始めており、再びシリア軍が介入するようになった。シリアと対立していたサダム・フセインのイラクはシリアに敵対するマロン派を支援した。もはやレバノン国家が崩壊していることは誰の目にも明らかであり、国際社会は和平を試みるようになった。

 そうしてレバノン内戦の最終段階が始まる。シリアの介入に反対するアウン将軍を中心とするマロン派はイラクの支援を受けてシリア軍との最終決戦に望むようになった。この時の戦争は非常に激しいものだったと言われる。最終的にレバノン内戦の帰趨を決定したのは外部要因だった。イラクのフセイン政権は1991年に湾岸戦争に敗北して力を失い、イラクに支援されていた勢力は大打撃を被った。アメリカは湾岸戦争に強力した見返りとしてシリアのレバノンにおける優越を認め、シリアは堂々と介入できるようになった。勝ち目のなくなったアウン将軍は亡命し、レバノン内戦は和平合意の結果終結した。

戦後レバノン

 内戦は終結したが、結局レバノンが宗派に分断されたモザイク国家という性質は変わることがなかった。レバノンは宗派間の緊張はあれど、内戦の再発を望まないという一点で奇妙な協調関係が結ばれていた。

 レバノンを2000年代まで事実上支配していたのはシリアである。シリアは露骨にレバノンを併合することはなかったが、選挙の干渉や軍の駐留などで強い影響力を行使していた。シリアと敵対していたスンニ派のハリリ首相はシリアの諜報機関によって爆殺されている。以前の記事でも述べたが、基本的に自国よりも貧しい国に支配されて喜ぶ国はない。レバノン人はシリアの介入に嫌悪感を持っており、それはまるでソ連の東欧支配に近しい感情だった。

 レバノン内戦に関与した武装勢力は武装解除されることになっていたが、例外となったのはヒズボラである。ヒズボラはイラン・シリアの両国と深い関係にあり、レバノン国軍を上回る軍事力を手に入れていた。2000年にイスラエルが南部から完全に撤退するとヒズボラは南部を手に入れることができた。奇妙なことだが、この段階になるとヒズボラのテロは激減したテロというのは基本的に弱者の戦法であるため、あまりにも強大化すると逆にテロに訴えるメリットは無くなってしまうのだ。

 2005年のハリリ首相の爆殺事件とその後の反シリアデモを受けてアメリカはシリアに凄まじい圧力を掛けた。シリアは2005年にレバノンからの撤退を余儀なくされ、間接的にレバノンへ影響力を投射するしかなくなった。ここで行幸となったのは2006年の第二次レバノン戦争である。シリア軍撤退の翌年にヒズボラはイスラエルを挑発し、両者の間で全面戦争が勃発した。イスラエルはレバノンへと侵攻したものの、ヒズボラに効果的なダメージを与えることができず、民間人の犠牲を出しただけだった。

 第二次レバノン戦争でヒズボラのレバノンにおける政治的な立場は揺るぎないものになった。これまで幾度となくイスラエルの攻撃を受けてきたレバノン人は一層イスラエルを憎むようになり、ヒズボラはレバノンの安全保障を担う存在としての役目が与えられるようになった。レバノン内戦でシリアと戦ったはずのアウン将軍はいつの間にか帰国し、今度はシリアと協力関係を結ぶようになっていた。

 2006年以降のレバノンはマロン派とシーア派が一応の連携関係を結び、スンニ派を牽制する形となっている。これはイラク戦争後の中東がサウジアラビアをはじめとするスンニ派アラブ諸国とイランーシリア陣営の対立によって分断されていることと軌を一にする。サウジアラビアはハリリ首相の甥を支援して首相に就任させるなどレバノンにおけるイランの影響力を妨げようと試みているが、あまりうまくいっていない。

 ヒズボラは武装勢力でありながら合法政党でもあり、レバノン国家の各方面を支配している。ここまで来ると単なる武装勢力ではなく、準国家と言っても良いだろう。2011年にシリア内戦が勃発するとヒズボラはシリアに介入し、アサド政権の側に立って戦った。この戦争は単なる内戦の域を超えており、イラン革命防衛隊とロシア航空宇宙軍はアサド政権の側に立って堂々と軍事介入を行っている。レバノンにおけるシリアの圧力は軽減されたはずなのだが、依然としてヒズボラとイランの強大化は続いており、レバノンの政治情勢は変わらぬままだった。イランはヒズボラやその他のシーア派勢力を統合し、イランからレバノンに至る勢力圏を確立している。その領域はかつてのアケメネス朝に良く似ている。

 こんな状況でも中東の富裕国として開明的な気風で知られたレバノンだが、それも最近怪しくなっている。2020年代に入った辺りからこの国は極めて深刻な経済不振に襲われているからだ。

 レバノンの経済不振の原因は色々考えられるが、最大の要因は政府機能が不十分であることが挙げられる。モザイク国家レバノン国家は宗派対立で全てが決まるため、統一政府がロクに機能していないのだ。2020年のベイルート大爆発もその一つの兆候だったのだろう。

開戦前夜?

 そのレバノンだが、現在は戦争の瀬戸際にいる。西側諸国は自国民の退避を呼びかけており、いつ戦争が勃発してもおかしくないだろう。

 2010年代に地域を混乱の渦に巻き込んだシリアとイラクの内戦は小康状態になったが、2023年のハマスによる大規模攻撃、「アル=アクサーの洪水作戦」によって中東情勢は新たな展開へと進んだ。イスラエルは怒りで沸騰した状態にあり、ガザ地区に前例のない激しい攻撃をしかけている。その矛先はガザだけではなく、ヨルダン川西岸地区はシリア・レバノンにも及んでいる。地域全体が不安定化しており、さらなる戦火の拡大が起きても不思議ではない。

 以前の記事で2020年代の中東はイスラエルとイランの対立がより激化するのではないか?という論考を書いた。

 地理的な理由でイランとイスラエルが全面戦争になる可能性は考えにくく、散発的な衝突にとどまるのではないかと思われる。その舞台となる可能性が最も高いのはレバノンだ。どこまでイランが入れ知恵しているのか分からないが、ヒズボラは2023年ガザ戦争の勃発以降、イスラエルの北部国境に対して攻撃を繰り返している。これに対してイスラエルも反撃しており、既に両者の衝突で500人ほどが死亡している。連日の戦争によって感覚が麻痺しているが、相当な水準である。

 イスラエルはここ最近、ガザから北方へと軍を移動させているようだ。ネタニヤフ政権としては泥沼のガザの戦争を続けるよりも北方でヒズボラを叩いたほうが成果が上がると判断した可能性がある。ヒズボラはイランと反イスラエル傾向が強まった中東地域の世論に押され、ますますイスラエルへの挑発を繰り返しており、両者が開戦する可能性は否定できない。イラン陣営はパレスチナ問題への深入りを避けているが、限定的な軍事行動であればむしろ中東地域における自国の権威を向上させるため、メリットが大きい。

 第三次レバノン戦争の展開を予想することは困難だが、レバノンの状況を考えるとヒズボラはイスラエルによって国土が蹂躙されることは望んでいないだろう。一方のイスラエルもガザでここまで批判が高まっている現状を考えるとレバノンで余計な重荷を抱えたくはないはずだ。第三次レバノンレバノン戦争は2006年の第二次レバノン戦争に焼き直しになるだろう。南部を中心にヒズボラとの戦闘が繰り広げられ、1000人程度の死者を出してイスラエルが最終的に撤退するというシナリオである。

 イスラエルは間違ってもレバノン南部の長期占領は望んでいないだろう。イスラエルは20年に渡ってレバノン南部を占領したが、1000人以上の戦死者を出して最終的に撤退を余儀なくされた。これはイスラエルにとって苦い思い出だった。イスラエルはガザと西岸に資源を集中させたいだろうから、レバノンに深入りすることはないだろう。

 ヒズボラ側への影響は予測不能だ。前回と同様にイランの支援を受けてイスラエル国防軍と死闘を繰り広げることは間違いないが、レバノンの現状の経済危機を考えると国民の支持が得られるとは限らない。ヒズボラは圧倒的な軍事力を持っているが、だからといってレバノンの世論や政府を無視して良いわけではない。国民の政治不信は頂点に達しており、ヒズボラの仕掛ける戦争は前回とは違ってあまり好ましくない反応を引き起こす可能性が存在する。

まとめ

 レバノンは中東に位置する小国だ。ただし、レバノンの立ち位置はヨーロッパにおけるオランダやスイスといった「豊かな小国」だった。アラブ世界の中では開明的で、所得水準もかなり高かった。湾岸産油国の存在によって見えなくなっているが、アラブ世界の中で最も進んだ国は本来はレバノンであるはずだったのだ。アラブ世界の文化的リーダーとなりうる国がことごとく失墜し、いびつな社会構造の湾岸産油国が強い影響力を持ってしまっていることはアラブ世界にとって良くないことだったのかもしれない。

 レバノンは多数の宗派を抱えるモザイク国家だ。これはある意味でレバノンの良さでもある。レバノンは中東の他の地域に比べると多種多様な文化が共存しているし、文化的にも成熟している。イスラエル建国前のエルサレムは色々な宗教の人々が仲良く共存していたと言われるが、レバノンはその姿に近いのかもしれない。イスラム教に熱心な人もいれば欧米人と見分けがつかない人もいる。スンニ派やシーア派やその他の少数宗派が勢揃いしているし、中東で唯一キリスト教徒が大勢力を占めている。カルロス・ゴーンを始め海外との結びつきも強い。古代の地中海の文明を彷彿とさせるような多様性がレバノンには存在するのだ。

ただし、こうした社会は一度内戦が勃発するとバラバラになってしまう。レバノンは山がちな地形もあって宗派別に武装勢力が乱立し、破綻国家となってしまった。更に追い打ちを掛けているのは隣接するシリアとイスラエルである。対立し合う二国家の間に位置する緩衝国家はろくな運命を辿らないが、レバノンもこの手の地政学的な罠にハマってしまったのだ。

 以前、もしイスラエルが建国されず、パレスチナの地でユダヤ人とアラブ人が共存していたらという考察を書いたことがある。

 パレスチナの地政学的な位置を考えるとこの国が中東地域を覆う混乱に絶えられたとは思えない。どう考えてもレバノンと同様に宗派対立の結果として深刻な内戦に見舞われるだろう。ただし、レバノンとパレスチナには大きな違いがあった。レバノンの各勢力はあくまで土着の勢力だったのに対し、パレスチナのユダヤ人は欧米からの入植者だったことだ。ユダヤ人入植者の軍事的・経済的な力は土着の勢力よりも遥かに強力だった。一人当たりのGDPに換算すると10倍以上の差があったはずだ。こうした力関係を反映し、1947年に勃発したパレスチナ内戦でユダヤ人入植者はパレスチナアラブ人を即座に圧倒したし、それどころか周辺諸国全てを的に回しても勝利を収めたのだった。レバノンの各勢力はヒズボラも含めて ここまで圧倒的な力は持っていないだろう。だからレバノンに根付くあらゆる勢力は宗派間のバランスに配慮し、最低限の協調体制を取らなければならないのだ。

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