見出し画像

<詳しい解説>パレスチナ紛争の原因と経緯、そしてこれから

 昨日、再びガザ地区で大きな戦争が勃発したガザ地区からイスラム原理主義政党のハマスがイスラエルに大規模な攻撃を仕掛け、700人ものイスラエル人が死亡したという報道がなされた。現在でも100人を超すイスラエル人がガザ地区に拉致されている。イスラエル首相のネタニヤフはこの惨劇に対して断固たる報復を宣言、イスラエルはガザ地区への地上攻撃を検討している。過去の紛争ではいずれもパレスチナ側が10倍以上の犠牲者を出しており、今回の報復によっておびただしい数のパレスチナ人の血が流されることは間違いない。

 パレスチナはおそらく第二次世界大戦後に最も長きに渡って国際的論争の対象となった紛争であり、一貫して憎悪と暴力が繰り返されてきた。紛争の複雑な性質により、平和的解決はほとんど不可能となっている。21世紀の間にこの問題が解決する見込みは低い。今回は世界で最も複雑極まりないパレスチナ紛争の歴史について解説しようと思う。

近代以前のパレスチナ

 宗教に触れたことがある人間なら誰しも世界宗教の全ての根源は3000年前にカナンの地に住まう一つの民族から始まったことを知っているだろう。その民族の名前はヘブライ人と言った。彼らはヤハウェという神を崇めるユダヤ教という宗教を崇めていた。彼らの先祖はアブラハムという1人の聖人であり、息子のイサク・孫のヤコブと伝説は続いていった。いずれも旧約聖書の超有名人だ。ヤコブにはもう1つの別名がある。それがイスラエルだ。

 パレスチナの地に住んでいたヘブライ人は苦難の歴史を辿った。世界で最初に文明化した中東地域の真ん中に住んでいるため、ありとあらゆる民族から征服を受けたのだ。エジプト・アッシリア・バビロニア・ペルシャ・マアレクサンドロス大王・・・世界の歴史に登場する伝説の帝国が代わる代わるこの地を支配した。その度にヘブライ人はユダヤ教の信仰を強めていき、世界で最も宗教的に保守的な民族が誕生した。この宗教の大きな特徴は神を1人しか認めないことであり、その排他性が人類の歴史を大きく動かすことになる。

 紀元前後にこの地を支配していたのはかのローマ帝国だ。ローマの間接統治によってユダヤ教の信仰は認められていたが、ヘブライ人の間でローマ帝国への反感は強く、当時のヘブライの地では反乱勃発寸前となっていた。この状況で生まれたのがイエス・キリストである。キリストとその支持者はユダヤ教の教義を変造し、より外国人に受け入れられるように作り替えた。キリストの死後もこの動きは続き、キリスト教はローマを内部から征服することになる。一方のヘブライ人たちは複数回の反乱で殲滅され、彼らの故国は消滅してしまった。ローマは報復のためにエルサレムの神殿を破壊し、かつてヘブライ人と敵対したペリシテ民族に因んでヘブライの地を「パレスチナ」という名称に変更した。

 ほとんどの民族にとってアイデンティティの拠り所は土地と言語だ。この2つを失った時に民族は消滅し、同化してしまう。人類の数万年の歴史でほぼ全ての民族がこの運命を辿ってきた。しかし、ヘブライ人には他の民族とは一つだけ違う特徴があった。それは特殊なユダヤ教という宗教だ。ユダヤ教の信仰のお陰で彼らは故国を失ってもアイデンティティを失うことはなかった。ヘブライ王国のあった土地にはいつしか人がいなくなってしまったが、世界中に離散した彼らは独自のコミュニティを守り、ユダヤ人と呼ばれるようになった。

 中世になると再び状況が変わる。アラビア半島に端を発するイスラム教が中東地域を席巻する。イスラム教もまたユダヤ教から派生した宗教だ。イスラム教を特徴づける豚肉の禁止その他の禁欲主義はユダヤ教が由来だ。イスラム教は排他的で保守頑迷な宗教と認識されることが多いが、それでもユダヤ教の比ではない。したがってイスラム教はキリスト教と同様に世界宗教へと飛躍した。

 一方のヨーロッパは中世の暗黒時代だ。カトリック教会を頂点として社会のすべてがキリスト教に塗りつぶされていた。この時代にキリスト教以外の宗教を信じるのは自殺行為だ。ユダヤ人たちは社会から隔離された被差別民族として生きていくことになった。弱い個体は次々と殺されるか同化されていったので、必然的に生き残ったユダヤ人は優秀な人間が多くなった。ゲットーと呼ばれる隔離地域に収容されながらも知恵と勇気でたくましく生きていった。

近代のユダヤ人

 中世を通じて激しい迫害を受けていたユダヤ人だが、近代になると大きく地位が向上する。ヨーロッパで近代化が始まり、社会が脱宗教化していったのだ。フランス革命ではユダヤ人の解放が進められ、多くの地域に波及していった。政治や軍事からは締め出されていたが、経済や文化の分野で卓越した功績を挙げるユダヤ人が続出した。

 近代ヨーロッパはアイデンティティが宗教から民族へと変化していった時代だ。それ以前はカトリックとプロテスタントの違いの方が重要だったのだが、近代になるとフランス国民やドイツ国民といった概念の方が重視されるようになった。カトリックのドイツ人とプロテスタントのドイツ人が同じドイツ国民としてフランスと戦うという、中世だったら考えられない光景が現実のものとなった。

 ここで問題となったのはユダヤ人のアイデンティティだ。ユダヤ人は一般のヨーロッパの国民から浮いていたのでドイツ語を話そうとフランス語を話そうと、現地の民族とは別の民族と認識された。独特の戒律と内婚制コミュニティーが隔離を産んだのかもしれない。こうしてユダヤ人は「国を持たない少数民族」という価値観が広まった。19世紀はドイツやイタリアの統一が進むなど、ナショナリズムが高揚した時代だ。ユダヤ人の中には「自分たちも国を持ちたい」と主張する者が現れた。

 19世紀のフランスは革命の影響もあり、ヨーロッパの中では最もリベラルな国と思われていた。そのフランスで起きた事件がドレフュス事件である。ドレフュスというユダヤ人の軍人が冤罪で死刑宣告をされてしまった。背景には未だに残るユダヤ人差別があった。フランスですらユダヤ人は異民族として差別されるのだ。こうしてテオドール・ヘルツルら進歩派のユダヤ人たちは「シオニズム」という運動を始める。シオニズムとはユダヤ人が自分たちも国を作ろうという運動だ。問題はその場所だ。ウガンダなど他の地域が挙がった時期もあるものの、最終的にはかつてヘブライ王国が存在したパレスチナの地ということになった。

 問題はパレスチナの地には他の人々が住んでいたことだ。現地の住民は古代ヘブライ人の血を引いている者もいたが、すでにイスラム教に改宗しており、アラブ人のイスラム教徒というアイデンティティを持っていた。19世紀のエルサレムはとうの昔に打ち捨てられており、住民はほとんど存在しなかった。当時のパレスチナはオスマン帝国の支配下にあり、平和な農業地帯だった。移住するシオニストは未だに少数で、大して問題とはされなかった。

 1914年に第一次世界大戦が勃発する。ユダヤ人はヨーロッパと中東の色々な地域に居住していたが、特に人口が多かったのが東欧だ。この地域は当時ロシア帝国の支配下にあり、様々な差別を受けていた。ユダヤ人の中ではロシア帝国=敵という風潮があり、ユダヤ人がロシアと対立するドイツを応援するような懸念が持たれた。

 ここで関与してくるのが大英帝国だ。イギリスはオスマン帝国の崩壊を見越しており、戦後の構想を寝る必要があった。イギリスはバルフォア宣言でユダヤ人のパレスチナ入植を推進することを認め、ユダヤ人の協力を得ることに成功した。同時期にイギリスはメッカの領主のハーシム家とも約束を交わし、オスマン帝国に反乱を起こすことを条件に国家建設を約束した。しかし、イギリスはどちらも完全には守る気がなかった。イギリスの真の計略はフランスと共に中東地域を分割して植民地支配することだった。世にいうサイクスピコ協定である。この協定は現代中東の基本構造を決定することになる。

 第一次世界大戦の結果、オスマン帝国は崩壊する。跡地に進出したのはイギリスとフランスだ。現在の中東地域の国家はこの時期に建国された。フランスはシリアを獲得し、このうちキリスト教徒が多かった地域をレバノンとして独立させた。イギリスと約束したはずのハーシム家は戦後まもなくサウード家との戦争に破れ、イギリスはサウード家にアラビア半島を与えた。いくつかの湾岸君主国もイギリスの保護の下に国家として認められた。行き場の無くなったハーシム家はイギリスの情けで現在のイラクとヨルダンの統治を認められた。19世紀にイギリスの実効支配下にあったエジプトはイギリスの衛星国として独立が認められた。

オスマン帝国解体後の中東

 ここで宙に浮いたのがパレスチナだ。入植するユダヤ人は次第に増加し始め、不在地主から土地を買い取って強引に移住し始めた。この段階になるとアラブ人とユダヤ人の関係はかなり悪化する。散発的にパレスチナではユダヤ人とアラブ人の間で暴動が発生するようになり、多数の死者を出すことになった。

 この時点でもすでにパレスチナの入植は問題を孕むようになったが、これが決定的になる事件が発生する。1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラーが政権を獲得し、歴史上最大のユダヤ人迫害が起こり始める。こうなるとヨーロッパのあらゆるユダヤ人が国外に逃亡することになる。行き先は大きく分けて2つ。1つはアメリカで、もう1つはパレスチナだ。

 ホロコーストの悲惨さは良く知られている。特にユダヤ人人口が密集していたポーランド・ウクライナ・ベラルーシでは歴史上最大級の大量虐殺が行われた。600万ものユダヤ人が捕らえられ、列車にすし詰めにされ、ガス室に送られた。その異常な残虐さは世界に大きな影響を与えた。ユダヤ人はもはや故国を作らなければ皆殺しになると確信しており、何が何でもパレスチナにユダヤ人国家を建国することに決めた。ホロコーストを野放しにした罪悪感から、国際社会も喜んでその動きを応援した。こうしてパレスチナに悲劇が訪れるまでカウントダウンが始まった。

イスラエル建国と「大災厄」

 あまり知られていないが、1940年代の時点でユダヤ人とイギリスの関係は良くなかった。大英帝国は中東全域を支配する帝国であり、諸民族のバランスが重要だ。イギリスはユダヤ人国家を建設することでアラブ人に反発を買うことを恐れた。パレスチナはもちろん、エジプトやヨルダンの世論もユダヤ人国家に反対していたため、イギリスは曖昧な態度を取っていた。ユダヤ人はイギリスが自分たちの建国を認めないのであれば、暴力を行使することを厭わなかった。

 パレスチナに入植したユダヤ人の1人にメナヒム・ベギンという男がいた。彼はポーランド出身のユダヤ人だ。1939年のポーランド侵攻でソ連軍に捉えられ、シベリア送りになった。その御蔭で家族で唯一ホロコーストを逃れることになった。殺戮を生き延びたベギンにとってはユダヤ人の安住の地を確保することは自分たちの生存に直結する重要事項だった。彼はパレスチナに到着するや否や、独立のための武装勢力を率いた。ベギンは1946年にイギリス人用のホテルを爆破して100人近くを殺害し、1948年にはパレスチナ人の村落を襲撃して数百人を虐殺した。イギリスはこうした暴動にさじを投げ、パレスチナ問題を国連に丸投げすることにした。

キングデイヴィットホテル爆破事件

 国連総会の結果、イスラエルの建国は認められることになった。当然、アラブ人は激怒する。ユダヤ人とアラブ人の間で殺戮の応酬が始まり、周辺諸国が介入し始める。気がつくとユダヤ人は現地のアラブ人のみならず、イギリス・ヨルダン・シリア・その他のアラブ世界全体と戦争を戦っていた。これがイスラエル建国戦争すなわち第一次中東戦争である。

 ユダヤ人は懸命に戦い、ついに国家の独立を勝ち取った。多勢に無勢にもかかわらずだ。数で圧倒していたアラブ側は全く連携が取れていなかった。ヨルダンのように裏で取引していた国もある。パレスチナのアラブ人は難民として周辺諸国に流出した。もちろんベギン一派による虐殺も背景に存在した。こうしてパレスチナ難民が誕生した。彼らはこの事件のことを「大災厄」と呼ぶ。

 戦争の結果、ユダヤ人とアラブ人の対立構造は確定した。パレスチナからアラブ人は逃亡したが、ユダヤ人もこれは同じだ。中東のあらゆる国からユダヤ人は追放され、イスラエルに移住することになった。両者の関係が決定的に悪くなったことでユダヤ人とアラブ人は棲み分けが行われるようになった。ガリラヤ湖からエイラートに至る細長い地域がユダヤ人の故国となった。

建国時点でのイスラエルの領域
ヨルダンとエジプトに食い込まれている

パレスチナ紛争と米ソ冷戦

 当時は第二次世界大戦後の混乱期であり、地域を支配していた大英帝国が崩壊して米ソ冷戦に組み込まれていく過程が起きていた。敗北が原因でエジプトの王政は崩壊し、ガマル・アブドゥル=ナセル大佐率いる軍事政権が誕生した。ヨルダンで王政が生き残って西側路線を続けたのに対し、エジプトのナセルはイギリス人を追放し、ソ連と手を組んだ。シリアとイラクでもナセルの信奉者がクーデターを起こし、これらの国はソ連の影響を受けたアラブ社会主義政権として東側陣営に組み込まれる。

 1956年、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言し、イギリス軍の追放を要求する。これに困ったイギリスはフランス・イスラエルと共にエジプトとの戦争を目論む。スエズ動乱、またの名を第二次中東戦争という戦争の勃発だ。この戦争は米ソが圧力をかけたことによってすぐに沈静化した。アメリカはエジプトがソ連陣営に入ることを恐れてエジプトの味方をしたのだが、エジプトは結局東側へ行ってしまった。この戦争をきっかけに中東地域にも本格的な米ソ冷戦が到来する。

 1950年代から1970年代の中東地域を特徴づけたのは東西冷戦であり、パレスチナ紛争はその最前線だった。東側陣営のエジプト・イラク・シリアは繰り返しイスラエルを攻撃し、アメリカは西側同盟国のイスラエルを守るために武器を提供した。国内世論に配慮して遠慮がちだったものの、トルコとイランはイスラエルと協力関係にあった。表面上イスラエルと敵対していた湾岸産油国も、アメリカを介してイスラエルとは密かな同盟関係にあった。

 ナセルの目的はエジプトをリーダーとするアラブ世界の統一国家だった。そのために地域の中央に位置し、アラブ世界から目の敵にされるイスラエルは何が何でも叩き潰しておく必要があった。ナセルは繰り返しイスラエルを攻撃し、他のアラブ諸国は形だけの賛同を示した。どの国もナセルの冒険に付き合うつもりも支配下に入るつもりも無かったが、国内世論に配慮してイスラエルとの対立を続けざるを得なかったのだ。この時代のアラブはエジプトとサウジアラビアを始めとする親米国家の間で冷戦が勃発していた。北イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争だった。エジプトの工作員がサウジ国王の暗殺を試みたこともあるようだ。アラブ諸国は一枚岩では無かったが、イスラエルの問題となると一致団結している素振りを見せた。これがパレスチナ問題特有の複雑さの一因だ。

第三次中東戦争というゲームチェンジ

 1967年、エジプトがいつものようにイスラエルへの武力挑発を始めると、イスラエルは普段とは違った反応を見せた。イスラエルはエジプト・ヨルダン・シリアに全面攻撃を仕掛け、一気に領土を4倍に増やした。わずか6日間で終了し、圧倒的な犠牲者の差があったため、人類史上最も成功した攻撃作戦の1つに数えられるだろう。

赤の部分が新しくイスラエルの領土となった部分

 それまでパレスチナの難民が居住していた地帯がイスラエルの支配下に突如置かれたことで新たな問題が発生することになった。それまでパレスチナ難民はエジプトやヨルダンの国民として扱われていたのだが、イスラエル被占領地のアラブ人はどこの国でもない、浮いた存在となってしまった。彼らこそが現在のパレスチナ自治区に住むアラブ人だ。こうして現在の「パレスチナ人」と言うべき集団が誕生した。

 面目が丸つぶれとなったナセルは新たな戦略を編み出した。イスラエル占領下にあるパレスチナ人を支援して反乱を起こさせようとしたのだ。指導者として担ぎ出された青年の名前はヤセル・アラファトと言った。アラファトはファタハと呼ばれるグループを率いてゲリラ戦を開始した。1972年のミュンヘン五輪ではファタハの戦闘員がイスラエル代表団を襲撃し、虐殺するという事件が起きた。

 この時代、他にもパレスチナのテロ組織は誕生した。PFLPやアブ・ニダルといった組織が該当する。彼らは世界中でハイジャック事件を起こし、国際テロ組織の代表格となった。彼らの共通点は社会主義・世俗主義を信奉していたことで、現在のイスラム原理主義のテロリストとは全く異なる。エジプトとソ連の支援を受けたテロリストはしばしば日本赤軍やドイツ赤軍と連合して数々のテロ事件を繰り広げた。1980年代まで有名な国際テロ事件の大半は彼らによるものだった。

第4次中東戦争と歴史的な和平合意

 1970年、国民の嘆きの中でナセルは急死する。後任になったのは盟友のサダトだ。サダトはエジプトの度重なる敗北を受けて考えを変えていた。エジプトはソ連ではなくアメリカと組んで繁栄を目指すべきであり、無益な戦争はやめるべきだと考え始めたのだ。中東最大の反米国家のエジプトが地域覇権を諦めた瞬間だった。パレスチナ人は確かに同胞かもしれないが、所詮は外国人である。エジプトの国益の方が大切だと彼は考えた。

 サダトはイスラエルとの和平を進める予定だったが、そのためには相手を交渉のテーブルに着けることが必要だった。自国領とみなしているシナイ半島はなんとしても取り返したいし、これ以上緊張状態が続くことも避けたい。そのため逆説的だがエジプトは戦争を起こすことにした。1973年、エジプト軍がシリア軍とともにイスラエルを急襲し、第4次中東戦争が起きた。

 圧倒的なイスラエル軍は最終的にエジプト軍を押し返すが、序盤の敗北はイスラエルにとっても衝撃だった。サダトはイスラエルに必要なショックを与えると直ちに和平交渉に乗り出した。サダトはイスラエルを訪問し、国会で両国の友好について語った。イスラエルもそれに快く応じ、1978年にキャンプデービット合意で両者の対立が終結した。当時のイスラエルの首相はかつて数々のテロ行為に手を染めたベギンだったが、ノーベル平和賞が授与されることになった。

 もちろん激昂したのはアラブの世論だ。エジプトはアラブ連盟から追放されることになった。アラブ諸国は他の問題に比べても不釣り合いなくらいにこの問題には熱心だ。サダトはアラブの裏切り者の烙印が押され、数年後に暗殺される。怒れるアラブの民に彼の平和への思いは届かなかったようだ。

 エジプトの脅威が排除されたことでイスラエルは周辺国家の脅威にさらされることは無くなった。ヨルダンは国力が弱く、もともとイスラエルに対する敵意は弱かった。エジプトが和平合意を結ぶとヨルダンは直ちに後に続いた。シリアは弱く孤立した国であり、パトロンのソ連も崩壊しかけていた。1980年代に完成した状況が現在のパレスチナ紛争まで引き継がれている。

ポスト冷戦期のパレスチナ紛争

 東西冷戦が終結したことにより、イスラエルは国家存亡の脅威にさらされることは無くなった。エジプトとその背後にいたソ連はいずれもイスラエルの敵ではない。彼らが支援していたテロ勢力も衰退を始めていた。

 近隣からの脅威は無くなったが、イスラエルを攻撃しようとする勢力は依然存在していた。イスラエルへの攻撃は依然としてアラブ世界・イスラム世界の世論で大変人気のある政策であり、これに便乗しようという者が後を経たない。1980年代以降に脅威となったのはイランとイラクだ。

 このうちイラクは当初もっとも脅威に思えた。サダム・フセインはエジプトの衰退に乗じてアラブ世界での勢力拡大に乗り出していたからだ。フセインはパレスチナゲリラを支援すると同時にアラブ世界と敵対関係にあるイランに攻撃を仕掛けた。100万人の犠牲の果てに戦争は引き分けに終わり、金に困ったフセインは今度はクウェートに侵攻してアメリカの激しい攻撃にさらされた。イスラエルはイラクの核開発を妨害するために航空攻撃でイラクの原子炉を攻撃した。イラクを倒すためにイランを裏で支援することすらあったのだ。

 エジプトから手を切られたので、パレスチナのテロ勢力はイラクを頼ることになった。そのイラクも湾岸戦争で敗北したことによって余力が無くなった。万事休すとなったファタハはイスラエルとの和平交渉を初め、現在のパレスチナ自治区が作られることになった。テロリストのアラファトはいつしかノーベル平和賞を獲得していた。

現在に至るイスラエルの領域
ガザ地区とヨルダン川西岸地区はパレスチナ自治区となった

 イラクのフセイン政権が崩壊したことで地域で勢力を拡大したのがイランだ。イランは1979年の革命までイスラエルの同盟国だったが、イラン革命によってイスラム原理主義政権が誕生し、イスラエルを激しく敵視するようになった。イランはイスラエルと対立するレバノンの武装組織・ヒズボラを支援し、イスラエルに大変な脅威を与えている。この状況は現在に至るまで続いている。

現在のパレスチナ紛争

 そして現在もパレスチナは紛争状態にある。今度は地域別にイスラエルとの敵対状態について見ていこう。

 パレスチナ自治区は住民の多くがアラブ人であり、貧困の中に打ち捨てられた状態にある。パレスチナ自治区はヨルダン川西岸地区とガザ地区の2つに分けられる。ヨルダン川西岸地区は先程の和平合意で統治が認められたパレスチナ自治区のファタハが統治している。この地域の半分以上がイスラエルによる占有状態にあり、国際社会から批判が寄せられている。和平合意でパレスチナ人に与えられた土地にイスラエルが入植しているのだ。これがいわゆる「入植地問題」だ。ファタハはイスラエルに抵抗する気力も能力もなく、住民もイスラエルに経済的に依存している。地域は細かく寸断され、軍事占領下にある。

本来パレスチナ自治区とされている地域も、実際はイスラエルが占領している事が多い

 深刻な状態にあるのがガザ地区だ。この地域は短期間の内戦の結果、ファタハを打ち破ってイスラム原理主義政党のハマスが政権を握った。ガザ地区は狭小な地域にあまりにも多くの住民が詰め込まれており、かつてのユダヤ人ゲットーのような状況だ。地域全体が封鎖されているため、何一つ産業がない。天井のない牢獄といわれることもある。大変皮肉なことに、イスラエルは新たなゲットーを作り出している。ワルシャワで自分たちが遭ったのと同じ目にパレスチナ人を遭わせているようだ。

 宿敵のエジプトとは揺るぎない同盟関係にある。エジプトはイスラエルの和平との見返りにアメリカの援助を獲得した。現在はサウジからも援助が出ている。ガザ地区とエジプトは隣接しているのだが、エジプトは彼らの窮状に無関心だ。というのもハマスはエジプトの反体制派であるムスリム同胞団から派生した政党だからだ。イスラエルと同様に実はエジプトはハマスを敵視している。エジプトはイスラエルに国境を封鎖することを許し、手を汚すこと無くハマスを痛めつけている。ハマスが頼れるのは密輸される人道支援物資だけである。国内世論を恐れて公には言及されないものの、イスラエルとエジプトは友好国なのだ。

 ヨルダンとイスラエルも極めて親密な関係にある。ヨルダンはアラビア半島のハーシム家が北上して作られた国家であり、実はパレスチナ人との仲は険悪だ。ヨルダンとヨルダンの人口の半分以上を占めるパレスチナ難民はヨルダン王政にとって潜在的な火種であり、1970年には短期間の内戦が勃発している。ヨルダンとイスラエルは共通の敵を抱えており、イスラエルの保護を得ることはヨルダン王政にとって死活的利益なのだ。

他の親米アラブ国家も似たような状況にある。世論は相変わらずパレスチナを熱烈に支持しているが、アラブ国家にとってはパレスチナは外国の問題にすぎない。それよりもアメリカや地域の敵に対する戦略の方が大切だ。サウジアラビアは地域のライバルであるイランと対立を深めており、アメリカに対する依存は強い。近年のサウジはイランに対抗するためにイスラエルを仲間に引き入れようとしている。地域のアラブ諸国は次々とイスラエルとの関係改善を進めているようだ。

イスラエルに対する敵対政策を続ける国家は2つ存在する。それはシリアとイランだ。1980年代にエジプトに見捨てられてから反米国家のシリアはイランを頼るようになる。2011年に勃発したシリア内戦ではシリアの現体制はイランの全面的支援のお陰で生き延びることができた。現在のシリアはイランの衛星国だ。アラブ世界の弱体化によってイランの勢力範囲はイラク・シリア・レバノン・イエメンにまで及んでいる。このイラン陣営がイスラエルにとっての現在最大の脅威とされている。

 しかし、イラン陣営がどの程度イスラエルにとって脅威になるのかは定かではない。確かに口先ではイスラエルへの敵意をむき出しにしているのだが、地域での人気取りという側面もある。イランとシリアの現体制はイスラム教のシーア派が中心であり、スンニ派とは潜在的な敵対関係にある。2011年のシリア内戦でハマスがシリア反体制派を支援したことによってハマスは一時的にパトロンを失った。イランにとっての敵はあくまでサウジアラビアを筆頭とするスンニ派の親米アラブ諸国であり、イスラエルは遠く離れた国に過ぎない。

国内世論と国際世論

 パレスチナ紛争は確かに長きに渡って血が流されている。ただし、紛争の深刻さに比べて犠牲者は思いの外、少ない。多めに見積もっても3万人程度だろう。シリア内戦の死者は50万人を超すし、サダム・フセインに虐殺されたイラク国民は30万人にも上る。イラン・イラク戦争や一連の対テロ戦争では更に多くの血が流された。実のところパレスチナ紛争は実際の戦闘規模と不釣り合いの関心を惹いているのだ。

中東地域の主な紛争の犠牲者

 朝鮮戦争やベトナム戦争に比較するとパレスチナ紛争の重要度は冷戦期であっても低かった。2000年以降の中東の勢力均衡においてもパレスチナは重要度の低い存在だ。シリアやイエメンの危険な戦場に比べてパレスチナは外国メディアが取材できるくらい穏やかだ。パレスチナの紛争は高度に政治化されており、多分に国際世論の宣伝合戦という側面を帯びる。イラクやイエメンであれほどの血が流されているというのに、活動家がやり玉に挙げるのはイスラエルばかりなのだ。

 イスラエルがこれほどまでに敵視されるのはイスラム世界の国内世論のせいだ。聖地を占領しているイスラエルはイスラム教徒にとって腹立たしい存在に思える。政府が友好関係にあるエジプトですら国民レベルではイスラエルに激しい憎悪を向けている。だから、イスラエルの一挙手一投足は国際世論の批判を浴びる。中東の為政者たちは国内問題を何もかもイスラエルのせいにして人気取りに走る。遠くのパレスチナに意識を集中させることによって真に重要な問題から注意を逸らすことができる。パレスチナで数十人が死亡してイスラム世界が怒りに打ちひしがれている間、何万ものイスラム教徒が世界中で殺されている。しかし、シリアやイエメンの殺戮はパレスチナほどイスラム世界の住民の心を動かさないらしい。

パレスチナ問題だけに異常な関心が注がれていることを皮肉った風刺画

 一方でイスラエルの肩を持つ国もある。それはアメリカを筆頭とする西側先進国だ。先進国はパレスチナを国家承認していないし、イスラエルとは同盟関係にある。アメリカ国内でもイスラエルへの道徳的立場は分かれるものの、イスラエルへの偏愛が見直されることはない。破綻した独裁国家ばかりの中東で、イスラエルは地域で唯一西側が価値観を共有できる国だ。優れた軍と諜報機関も頼りになる。この関係が見直される可能性はないだろう。

青はイスラエルのみを承認している国
赤はパレスチナのみを承認している国
 西側先進国とイスラム教国という対比が明確だ

 イスラエルの国内世論は年々右傾化を続けている。もともとシオニズムはリベラルな運動から生まれており、建国後に長らく政権を獲得していたのは労働党だった。しかし、1970年代あたりから宗教右派政党のリクードが政権を獲得するようになった。テロリストのベギンの流れを汲む政党がイスラエルの政界を主導している。これが近年問題を産んでいる。イスラエル国内にはイスラム原理主義のことを批判できないくらいに保守頑迷な宗教右派がいる。リクードは彼らの支援を受け、パレスチナへの入植を進めている。これは新たな紛争の種を生むだろう。

紛争の解決が困難なわけ

 パレスチナ紛争の解決案は主に2つある。1つは1国家案であり、もう1つは2国家案だ。

 1国家案が実現する可能性はない。イスラエルとパレスチナが1つの国家に合流したとすると、イスラエル国民の半分以上はアラブ人ということになる。これではイスラエルの建国の理念を守ることはできないし、民主主義や人権といった価値観すら怪しくなっていくだろう。1国家案は例えるならば日本国内に日本を敵視する1億人の難民が流入するようなものなのだ。

 2国家案が実現する可能性も極めて低い。もしパレスチナ国家の独立を認めたらヨルダン川西岸地区の入植地は撤廃されることになる。また、パレスチナの主権が認められればイスラエル軍はパレスチナから撤退を余儀なくされるが、これは地政学的に難しい。イスラエルの本来の領土は南北に極端に細長い形になっているので、独立パレスチナが誕生すれば深刻な国防上の脅威にさらされることになる。イスラエルが近隣のイスラム教徒を一切信用していない以上、パレスチナの主権は制限されたままだろう。

 宗教上の違いに気を取られて完全に見逃されているのだが、イスラエルとパレスチナの相互理解が不可能な理由は経済面にもある。イスラエルは自立した先進国なのに対し、パレスチナは中東の中でもかなり貧しい地域だ。両者の経済格差は10倍にも及ぶ。世界の紛争地域でこれほどまで経済格差がある地域は存在しない。

 10倍もの経済格差が開いていれば、相互理解は難しくなる。先進国の人間から見ると、パレスチナは異様に宗教に熱心に見えるし、国内の統治もろくにできない破綻した政権に見える。ろくな産業も教育もなく、パレスチナは巨大なスラム街に見えるだろう。もちろんパレスチナ人はイスラエルの迫害のせいだと言い張るだろうが、そのエネルギーをもっと国内の建設や産業に向けるべきではないかと先進国の人間には思えてしまう。イスラエルとパレスチナの相互理解の難しさは統一後の朝鮮半島に近いのかもしれない。

 似たような問題を抱えた地域がある。それは南アフリカだ。どちらも深刻な人権問題を抱え、冷戦状態の下でアメリカの支援を受けていた。両国は共に核開発を進めていたこともある。

 なぜ南アフリカは和平に成功し、イスラエルは失敗したのだろうか。まず南アフリカは黒人と白人の間に軍事紛争が無かった。南アフリカが世界のパワーゲームから離れた僻地に存在するのに対し、イスラエルは世界の火薬庫に位置する。両者の苛烈さが異なるのは明らかだろう。

 経済的な理由もある。南アフリカの白人は黒人を低賃金労働力として炭鉱でこき使っていた。不公平なことに間違いはないが、両者の間に依存関係が生まれたことも確かだ。南アフリカの白人は黒人なしに生存できなかったのだ。対照的にイスラエルはパレスチナとの経済関係が薄い。好きの反対は無関心というように、放置は支配よりも残酷だ。パレスチナ人は経済的にどうでもいい存在なので、イスラエルの側にパレスチナ人を尊重しようというインセンティブは働かない。パレスチナ人はタダの邪魔者であり、国際社会の圧力がなかればとうに追放されていただろう。

 パレスチナ人の第三国の定住を図るという試みもあるが、完全な解決は難しいだろう。パレスチナ人は新たなディアスポラとして世界各地に離散しており、故郷への帰還はもはや民族的アイデンティティと化している。アラブ諸国は内心難民を邪魔者と思っているため、難民が帰りたいと言っているのなら快く支援するだろう。人口増加によって増え続けるパレスチナ難民はすでに600万人になっているが、彼らは行ったこともない曽祖父母の故郷に対して異常な執着を見せている。頑なだと批判するのは簡単だが、ユダヤ人はそれを言える立場にないだろう。なにしろ彼らは2000年前の故郷に移住したのだから。

今後のパレスチナ紛争

 パレスチナ紛争は今世紀後半になっても解決される可能性は低いだろう。アラブ諸国の衰退により、イスラエルは地域でますます強大になっている。かつて地域大国として名乗りを上げたエジプトはサウジアラビアの従属国と化し、イラクは国家として完全に崩壊した。アラブの春に伴う一連の紛争によりアラブ諸国はとてつもない混乱に見舞われ、イスラエルとの軍事対決どころではなくなっている。

 アラブ諸国はイスラエルへの依存を強めている。トランプ政権下でUAEやバーレーンはイスラエルと国交を結び、サウジアラビアが続くのは時間の問題だ。パレスチナはこの状況に危機感を募らせている。見捨てられる恐怖に苛まれているようだ。イランはシリア内戦以降の関係断絶を修復し、再びハマスへの支援を再開しているが、危機感は拭えない。イランは民族も宗派も違うし、国際世論のウケが良くないからだ。

 パレスチナはイスラエルを軍事的に打ち破ることができない。アラブ諸国が束になっても叶わない存在を、パレスチナの住民がどうにかできるわけがない。しかし、この紛争は宣伝戦・世論戦という側面が強い。パレスチナが目立ち、イスラエルが攻撃を加えるほど国際社会はイスラエルを批判するようになる。国連総会で演説する少女や欧米の人権活動家こそがパレスチナにとっての拳である。

 今回のハマスの大規模攻撃も政治戦の一貫だろう。イスラエルが挑発に乗って大規模な報復を行えば、イスラム世界の世論はパレスチナに同情的になり、サウジアラビアはイスラエルとの国交回復が難しくなる。ハマスは国連の建設した学校の中に軍事拠点を作り、イスラエルにわざと攻撃させるだろう。最初から軍事的勝利など目指していないのだ。民間人の犠牲に関してもイスラエルよりも遥かに鈍感だ。彼らの目的は別のところにある。少しでも人目を引く行動をとってイスラエルに圧力を加えるつもりなのだ。

 今回の攻撃の背後にはイランがいるという見解がある。ハマスにしては非常に高度な作戦だったので、協力者がいた可能性は高い。イスラエルとサウジアラビアの接近を誰よりも恐れているのはイランだ。イランがハマスを支援して大規模な軍事行動をするようにけしかけた可能性は大いにある。ヒズボラが同時期に動いていることも気がかりだ。これでサウジ=イスラエル同盟を妨害できたとすれば、鮮やかな手並みである。

 安泰とも言えるイスラエルだが、1つだけアキレス腱がある。それは人口だ。イスラエルの特殊合計出生率は先進国トップだが、それでもパレスチナには勝てない。パレスチナの特殊合計出生率は未だに4近くあり、次第にイスラエルを圧倒しつつある。パレスチナ難民とは別にイスラエル国籍のアラブ人は存在するのだが、彼らの割合は人口の20%にも達している。パレスチナのアラブ人や難民と合わせるとユダヤ人をはるかに上回るだろう。こうした事態は以前から懸念されていたことだ。ただし、出生率の低下は世界的潮流であり、パレスチナも少しずつ出生率は下がっている。そのため、もしかしたらイスラエルが人口比で圧倒される未来は来ないかもしれない。

 不確定要素があるとすればトルコだ。冷戦下のトルコは自国をNATOの一員として定義づけており、中東地域にほとんど関心を持たなかった。イスラエルとは政治的にも軍事的にも極めて親密な関係にあった。しかし、エルドアン政権が成立してからの20年、トルコの立場は変わっている。トルコの経済は地域で突出して強く、軍事的にもイスラエルを上回る唯一の国家だトルコは中東地域のリーダーとして振る舞おうとする素振りがあり、パレスチナ問題への関与を強めている。2010年のガザ地区へのトルコの人道支援船をイスラエルが襲撃した事件によって関係は険悪になった。エルドアンがイスラムの盟主を名乗りたければ、パレスチナの問題は避けて通れない。フセインやビンラディンと同様に、エルドアンが地域での人気取りのためにパレスチナ問題を持ち出したらどうなるのか。現時点では両者は依然として友好関係にあるが、トルコがもし劇的な路線転換をすればイスラエルは新たな脅威にさらされるだろう。

今後のイスラエル

 私は以前、イスラエルに旅行したことがある。イスラエルと言えば危ないという印象が独り歩きしている面があるが、実際のイスラエルは隅々まで清潔な先進国で、日本と同等かそれ以上に発展した国に思えた。人々は教育水準が高く、非常に紳士的だった。治安も良好だ。

 更に以外だったことはイスラエルには多数のアラブ人が居住しており、彼らは普通のユダヤ人と見分けが日本人にはつかないということだ。アラブ人は善良な市民としてイスラエルで暮らしているのだ。先進国の価値観を受け入れ、平和を愛する人々である。アラブ人であっても共存することは可能なのだ。

 しかし、こうした状況はどこまで拡大できるかは分からない。イスラエルが平穏のうちに生存するにはパレスチナ人と何らかの棲み分けをしなければならない。境界線として国際社会が主張しているのは第三次中東戦争以前のイスラエル国境だ。現在のパレスチナ自治区との境界線もこのラインに沿っている。しかし、現在のイスラエルの政権は右翼的であり、入植を推し進めている。パレスチナと共存できる可能性を自らのエゴによって潰している。アラブ系イスラエル人に対して差別的な法案も生まれつつある。イスラエルは自らが見下すハマスと道徳的に変わらない存在となっているのではないか。以前の世俗的でリベラルなイスラエルは姿を消し、ユダヤ教原理主義の宗教保守国家の色彩が強まっている。

 パレスチナ問題の特徴の1つは当事者によって立場が大きく分かれることだ。紛争が起こるたびにイスラム世界の国はパレスチナが全面的に正しいと主張し、アメリカはイスラエルが全面的に正しいと主張する。本来紛争をストップさせるはずの外国勢力がむしろ日に油を注いでいる。この問題はどうにも道徳論争をヒートアップさせる力があるらしい。自由で繁栄している強者のイスラエルと貧しく無教育な弱者のパレスチナのどちらの肩を持つかはトロッコ問題のような倫理問題を孕む。確かにパレスチナの方が圧倒的に多くの犠牲者を出しているが、これはイスラエルの残忍さなのか、パレスチナの後進性なのかも意見が分かれる。パレスチナ問題が今後解決するかは神のみぞ知る。その神こそが問題なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?