おれは死ねる。これで死ねる。


また、堀間善憲さんの記事を引用。
何回目かな?
人のなんとかで相撲をとる、といふより、人の提灯で明かりをとる、といふシリーズです。堀間さんの記事によってわたしに見えて来たものを書くといふシリーズ。

翌日、〈あいつ〉はひとりで太平洋に面した砂丘へ赴いてタコツボを掘り、そこから敵上陸部隊のM四戦車めがけて爆薬もろとも突っ込んでいく自主訓練をはじめる。日がなのどかに寄せては返す波を目の前にしていると、夜の帳のかなたをB29がふたたび市街地の空襲へと向かい、そこから逃れてきた者によって〈少女〉も猛火のなかで焼け死んだことを知る。絶望に駆られるひまもなく〈あいつ〉には新たな命令が下され、砂丘での敵の待ち伏せをやめて、こちらから先手に打って出るべく、むきだしの魚雷にドラム缶をくくりつけただけの特攻兵器に乗り込んで大海原に繰り出していく……。かくして、冒頭のト書きの場面に回帰するのだ。

もうすぐ敵が上陸して戦場となる都市で、肉弾(肉体を弾丸に代用して敵陣に激しく突入すること<日本国語大辞典>)としての訓練を受けてゐる青年が、或る少女と出会ひ、セックスをする。そのシナリオを読んでその場面を想像した思春期の堀間さんは、心身を揺さぶられたさうです。


  はげしい、二人の息づかい。
あいつ「おれは死ねる。これで死ねる。君のために死ねる。……おれは、君を守るために死ねるぞィ……」
  雷鳴、風、どしゃぶりの音。

堀間さんは、心身が揺さぶられたときの思ひを
股間が疼く
と表現されてゐます。

このことも、わたしがこのところずっと考へてゐる問題と重なりました。
その問題は男性器官の突起した形状と関連します。
男性の突起した器官に相当する女性の、小さいながらも突起した器官は、やはり思春期ともなると男性の裸や香りに触れて勃起するのださうですが、小さすぎて女性自身はその変化に気づけないので、その変化をもたらした性欲を意識することもない。
一方、男性はといふと、遅くとも小学校高学年ともなると、いつものやうに母親やお姉さんと無邪気に一緒に入ってゐた女湯で、或る日、自分の身体の突然の、そして抑へやうのない変化に驚いて、それまで隠したことのない股間を、慌ててタオルで覆ひます。
男子は別にニヤニヤしながら女湯にゐる女性たちの裸を眺めてゐたわけではない。本人にもわけがわからない。ただ、何事か、たいへんなことで―しかも(人前での失禁に等しい)誰かに知られたら面目を失ふやうなこと―が、起きたことは否定できない。

男性はいやがうへにも気づかざるをえない身体になってゐる。

欲望を感じると、ただちに身体的信号によってその欲望に気づく。
このことが、見るといふことに繋がってゐる。
だから、男性は、何につけても、
見極めたい
といふ思ひに駆動されて、昔ならエロ本、今ならAVを蒐集しだすと共に、哲学や学問研究や社会活動の面でも、終はりのない探求に追はれ始めます。

少年の股間を疼かせた描写は、次のやうなものです。


  入口に少女がいて、歩きはじめた。


あいつ「……どこへ……」

  雨がはげしく降っている。

  振り返った少女が毛布をさっとぬいで裸になった。

少女「……きれい?」

あいつ「うン、とても……」〔中略〕

  肉と肉とが、はげしく打つかる音。
  はげしい、二人の息づかい。

あいつ「おれは死ねる。これで死ねる。君のために死ねる。……おれは、君を守るために死ねるぞィ……」
  雷鳴、風、どしゃぶりの音。

これは、どこかで読んだ。
まさに『憂国』(三島由紀夫)の中核場面の一つと同じです。
小説『憂国』では、新婚の青年将校が自宅で自決する夜、美しく貞淑な妻と最後の契りを結びます。
互ひに若い身体をぶつけあふやうに激しく愛し合ふ様子が丹念に描かれてゐます。
その後、愛する妻が白無垢の着物を着て見守る中、夫の青年将校が割腹して、夫の自決を見届けた妻が(結婚する時に母親から貰ひ受けた)懐剣で喉を突くところで、この短編は終はります。

この作品で、三島由紀夫氏は、
おれは死ねる。これで死ねる。
と男が納得出来るものを全て明らかにしてゐます。

後に、石原慎太郎氏が特攻隊の青年たちを描いた映画の制作と脚本にかかはったとき、題名を
俺は、君のためにこそ死ににいく
としました。

君のために死ねる。……おれは、君を守るために死ねる
と同じ発想です。

ここからは、わたしだけの考へとなって誰も共感しないと思ひますが、
石原慎太郎氏は肝心なところを、時代のイデオロギーにおもねってか鈍感過ぎて気づかないのか(おそらく鈍感だからだとわたしは思ひますが)、抜かしてしまってゐます。

君といふのが女で、女のためだけなら、これからも何度もセックスをするために、何がなんでも生き延びなければならない。
死んだら元も子も無い
これが戦後、私たちが心の底から共感し、信奉するイデオロギーです。
命より大切なものは無い、と言はれて誰がそれは違ふと言へるでせうか?
臆病な狐のやうにクレバーな石原慎太郎氏は、生命尊重の禁忌に触れないやうに用心を重ながら保守派が涙を流して喜ぶ特攻隊映画を作ってヒットさせました。

特攻した後、どうなるか?

「海と空とのド真ン中に、ドラム缶が一つタテに浮かンでいる。ポッカリ、ポッカリ、のどかに浮かンでいる」

かういふことです。
死んだ後は、何も、ありません。

だから、戦後の日本人は、戦争をしたことを心の底から反省して、二度と戦争だけはしないと思ひ、そのやうに痛烈に思ってゐたところに、あの有難い(つまり国家として戦争をしないなんて有り得ないはずの)戦争放棄の第九条付き日本国憲法を、アメリカ様から授けていただきました。
(保守派は「押し付け憲法」などと言ひますが、間違ってゐます。
押し頂いた憲法です。だから、アメリカが改正しろと言ふので、今、あの手この手で戦争できるやうに改正案を練ってゐるところです。)

国歌の「君が代」のを、「あなたちみんな」のことであると言って、民主主義の時代でも国歌として歌っていいのだといったことを偽善的な保守派は言ひますが、それは詭弁です。
は、あくまで、身命を投げだして忠誠を尽くす対象である君、君主であり、殿様であり、日本人全体にとっては最終的に天皇に帰着する対象です。さうした対象が滅私奉公の行動をvalidateしてくれるのです。

身命を投げだして忠誠を尽くす対象が<「私」がセックスする(したい)女>であっては、<私個人の身命>を投げだすことはできません。
なぜなら、死んだ後は空無が広がります。
その空無と一体化する対象としては、「私」(個人の中の個人幻想の中ゐる誰か個人)の女では無理なのです。

共同幻想の中にゐる、共同幻想の統括者を対象にしなければ、それより大切なものが無いはずの<私個人と私の自由>を構成する<私の>を危険にさらしてまで行動することは出来ません。

これは奇矯な考へではありません。
一般に、「おんなこども」の危機を見ると、怪我や命そのものの危険もかへりみず、考へる前に守らうと行動に移る男性は少なくありません。
女性にして、男性がさうするものと本能的に知ってゐます。

これは小説からの例ですが、金庫に子供が閉じ込められたとき、母親はまはりにゐる男性たちを責め立てます。

一瞬の静寂があってから、中から子どものかすかな声が聞こえてきた。真っ暗な金庫の中でパニックになって、怖くて泣きじゃくる声だった。
「アガサ! アガサ! 今にもおびえて死んでしまうわ! ドアを開けて! いいから、こじ開けて! 男のくせに、何もできないの!」
 と母親が泣き叫ぶと、アダムス氏はふるえた声で答えた。

『よみがった改心』オー・ヘンリー



そのとき、「おんなこども」はなにかずっと続いてきて、これからも続いていく生命全体の表象となってゐます。だから、自分個人の身命の危険に対する(本来は抗ひ難いはずの)恐怖を楽々と乗り越えて身体が動きだすのです。

結論として、わたしが言ひたいのは、
男が「俺は死ねる」と言ふため、言ふだけでなくほんたうにさう感じるには、大義が必要だ
といふことです。

大義は、国家や民族といった、偏狭で敵を絶対に許さない集団にしかありません。
(レイシストを敵としてまとまる集団には「多文化共生」といふ確固不動の大義があります。)

共産主義者たちが、大義として世界革命を目指してゐるはずなのに、実際に世界の共産化の活動を始めると、国家単位の共産主義国家☆に落ち込んで、どんな右翼的な国家よりも愛国や自民族中心を叫ぶやうになったのは、人民を兵隊として使って死なせるには、やはり大義が必要だったからです。
そして、その大義とは、国家や民族といった、偏狭で敵を持つ集団からしか生まれないのです。
(☆国家を搾取の為の暴力装置とする共産主義としては自己矛盾してる)
共産主義者も、恒久平和の自由平等な地球村を実現するといふ大義を追ひ求める以上、その大義その理想を実現するための道具として、国家や民族といった、偏狭で敵を持つ集団を用ゐるしかないわけです。





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