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緊張感と使命感の大切さ

[列王記 第二 12:2,3,4,5,6]

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。
ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。ヨアシュは祭司たちに言った。「主の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に主の宮に献げられる金のすべては、祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。

今日の聖書箇所
II列王12:1〜8

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

祭司エホヤダによって南ユダの王に即位したヨアシュの人生には明確な光と影があります。祭司エホヤダが生きていた期間、ヨアシュは主の目にかなうことを行います。

ヨアシュは自ら神殿の修復に取り組むのです。悪女アタルヤが統治していた期間に神殿は荒れ果ててしまっていました。それゆえヨアシュは神殿に捧げられる献金を神殿修復のために使うようにと祭司たちに命じるのです。

しかし祭司たちは献金を神殿修復のために使わず、自分たちの生活のために使ってしまうのです。本来、神殿で神に仕える祭司こそ神殿の修復に最大限の興味と関心を持つべき者たちでした。

その祭司たちが神殿とそこでの礼拝、つまり神のことより自分たちの生活が第一という職業宗教家に変質してしまっていたということです。どうしてそのような信仰的霊的な堕落が起こってしまったのでしょうか?

そこにはやはり緊張感と使命感を失ってしまったことがあるのではないかと思います。悪女アタルヤがいた時には祭司たちは自分たちはいつ殺されるか分からないという緊張状態にいて、悪女アタルヤを何としても取り除かなければならないという使命感に燃えていたのではないかと思います。

しかしその悪女アタルヤがいなくなり、祭司のリーダーであるエホヤダが幼いヨアシュ王を導く実質的な国のリーダーになります。そうなるともう自分たちを脅かす存在はいなくなり、エホヤダを含めて祭司たちは緊張感と使命感を急速に失ってしまったのではないかと思います。

そうなると自分たちの生活のこと、自分たちの肉の欲を満たすことに関心が集中して神のことも神殿のことも二の次、三の次になってしまったのではないでしょうか?

祭司たちの信仰と霊性が崩れてしまったので神殿修復の前に信仰と霊性を回復しなければならなくなったのです。神殿の破損は金で修復できますが、崩れてしまった信仰と霊性は簡単には回復することはありません。

そしてまたヨアシュ王も神殿の外側には関心があったのですが、自分と民の内面の信仰には興味がなかったようです。

南ユダの民は「高き所」でいけにえや犠牲を捧げていました。「高き所」とはカナンの先住民族が偶像を礼拝していた所です。民の信仰は相変わらず真実なものではなく混合宗教とご利益信仰によって歪み、腐敗していたのです。

ヨアシュはそれについて無関心であったか、妥協したかどちらかであったと思われます。ヨアシュは信仰の中身より神殿という外見、外側のことに興味と関心があったのだと思われます。

外側、外見さえ保っていればそれでいい、そんな中身のない形式的外面的な信仰しか持っていなかったのでしょう。それゆえヨアシュ王は祭司エホヤダが死ぬと主なる神への信仰を捨てて偶像崇拝に戻ってしまうのです。

私たちもまたそんな形式主義、外見主義によって信仰を失い、本質を失い、いのちを失ってしまうことが多くあるのです。これだけやっているんだから大丈夫でしょう、自分は過去にこれだけやってきたから大丈夫でしょうと安心して自己満足の中にとどまり、神との交わり、神との関係をすっかり失ってしまうことが多くあるのです。

人はそれほど弱い存在であり、罪と肉の欲の力は想像以上に強いものであり、悪魔は私たちの思いをはるかに超えて巧妙で狡猾なのです。そのようにして悪魔は信仰と霊の力、霊の感覚を失わせ、いのちのない宗教へと堕落させ、最後には持っていると思っていた信仰まで全て奪い、何もかも奪っていくのです。

それゆえ私たちは緊張感を持って外側ではなく自分の内面に注意しなければなりません。使命感をもって外側を飾ることではなく内面の改革に集中しなければなりません、緊張の糸が緩み、使命感を失ってしまうところからせっかく築き上げてきたものが崩れ始め、私たちはただの肉の人、この世の人に戻ってしまうからです。

そうならないためには絶えず目を覚まして祈り続けるしかないのです。

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