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霊の目が開かれるとき信仰が与えられます

[列王記 第二 6:15,16,17]

神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

今日の聖書箇所
II列王6:15〜23

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリシャはイスラエルに侵入するアラムの略奪隊の動きを霊の力で予知をしてそれをイスラエルの王に知らせることでアラムの攻撃を防いでいました。

敵である悪魔はいつでも私たちの隙を突いて攻撃してくるのです、それゆえ私たちは霊的に目を覚まし、絶えず祈ることで霊的な感覚をいつも研ぎ澄ましていなければならないのです。

アラムの王は自分たちの攻撃がいつも失敗するのは預言者エリシャのせいだと知るとエリシャを捕らえるために大軍を遣わします。エリシャのいたドタンの町はアラムの大軍で取り囲まれるのです。

エリシャのしもべはそれを見て、慌てふためき、恐れます。これは人間的には当然です。人間的にはエリシャもしもべも殺されるしかない状況だったからです。

このような絶体絶命の危機の中でエリシャは全く恐れません。それはエリシャを取り囲んでいる天の軍勢がいることを知っていたからです。そしてエリシャは恐れ震えている自分のしもべの霊の目を開いてくださるように祈るとしもべも自分たちを守る天の大軍が見えるのです。

信仰とはこのように霊の目が開かれ、霊の目で物事を見ることができることなのです。不信仰とはただ肉の目で見たこと、肉の感覚で感じ取れることだけを信じることなのです。

目で見えるところがどれほど危機であっても、目に見えない霊的な世界が動くならばその危機は解決していくのであり、また目に見えるところがどれほど立派で安定していたとしても目に見えない霊的な世界が崩れているならそれはやがて崩れてしまうことになるからです。

イエス様は壮大なエルサレム第二神殿を見ながらその崩壊を預言されました。弟子たちはそれを見て何と立派な建物でしょうと感激していたのですが、イエス様の目には全く違うものが見えていたのです。

[マルコの福音書 13:1,2]

イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

私たちもまた危機の中で守られ、戦いに勝利していくためにはこの霊の目が開かれることが必要です。目に見えるものだけを見ているなら恐れと絶望によって倒れてしまうだけになってしまいます。

全能の神、万軍の主が全てを統治され、ご自分を求める者たちに報いて救い、助け、導いてくださることを霊的に見ることができなければなりません。また見えない神の御言葉が必ず目に見える形で実現していくことを見ることができなければなりません。さらに見えない神への祈りが見える形で答えられていくことが見えなければなりません。それが見えた時、信仰が与えられるのです。

信仰は何か信じられないことを一生懸命に信じます、信じますと思い込もうとすることではないのです。霊の目で見たこと、霊の耳で聞いたことは無理せずとも霊で信じることができるようになっていくのです。それが信仰です。そのような信仰が神の全能の力の通路となって奇跡を起こしていくのです。

エリシャは祈りを通してアラムの大軍を目をくらませサマリアの町の真ん中へと導きます。エリシャが絶体絶命の危機に陥ったのではなく、アラムの大軍がイスラエルの軍に取り囲まれて絶対絶命の危機に陥ったのでした。

イスラエルの王に略奪を繰り返すアラムの軍を滅ぼす絶好のチャンスが与えられまます。それゆえエリシャに打ちましょうかと何度も尋ねるのです。しかしエリシャは意外にも敵であるアラムの軍を丁重にもてなし、送り返すように命じます。

[列王記 第二 6:21,22,23]

イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。

エリシャは神の愛と憐れみを敵であるアラムの軍にも示すのです。エリシャは敵を愛し、迫害する者を祝福することで敵に勝利したのです。これはエリシャにどれほど余裕があったかを示しています。

肉の戦いで肉の方法を用いるならそれに勝っても戦いと問題は続きます。報復と復讐の連鎖という泥沼の中に入っていくのです。肉の戦いに対して霊的な方法、信仰と憐れみで勝利するなら戦いは終わり、問題は解決していくのです。

エリシャは人間の知恵と方法ではなく神の知恵と方法によってたった一人でアラムの大軍に勝利、イスラエルを救っていったのです。私たちもエリシャのような信仰と知恵によって戦いに勝利し、国を救う聖霊の人となれるよう祈りたいと思います。

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