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宗教という罠

[列王記 第二 17:34]

彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることはなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。

今日の聖書箇所
II列王17:34〜41

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

北イスラエルの滅亡とサマリアの混合宗教について列王記の記者が要約し、そこから得られた教訓をまとめています。

それを一言で言うならば北イスラエルは自分なりの宗教という罠によって滅び、サマリアの地に残った混血の民には自分なりの宗教が続いたということです。

イスラエルの民はアブラハム、イサク、ヤコブから始まる神の選びの民であり、その神が彼らをエジプトの奴隷から解放し、契約を結ばれた契約の民でした。

[列王記 第二 17:34,35,36,37,38]

彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることはなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。主はイスラエル人と契約を結び、次のように命じられた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝み、これに仕えてはならない。これにいけにえを献げてはならない。大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。主があなたがたのために書き記した掟と定めと律法と命令をいつも守り行わなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。

主なる神はアブラハム、イサク、ヤコブにご自身を現し、彼らは主なる神を知り、主なる神と契約に基づく人格的な関係を結んでいきました。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民も主なる神と契約を結びました。そこには主なる神の一方的な恵みによる救いがあり、その救いの恵みの中に歩み続けることができるように律法が与えられ、イスラエルの民はその救いの恵みに対する感謝からその律法に従って主なる神を礼拝し、その律法に従っていのちと祝福の中を生きるべきだったのです。

それが主なる神の御心であり、ご計画だったのです。しかしイスラエルの民はそのような主なる神と愛と信頼に基づく人格的な関係、生きた関係を築くことなく自分なりの宗教を築き上げていくことになってしまったのです。イスラエルの民は自分たちをエジプトの奴隷から救い、約束の地と豊かな祝福を与えてくださった主なる神の恵みを忘れてしまったからです。それが彼らの罪でした。

そして主なる神との人格的な関係、生きた信仰を自分たちにとって楽で便利で都合の良い宗教に変えてしまったのです。そこには自己満足の宗教儀式しかなく、他の神々を礼拝する偶像崇拝も盛んに行ったのです。それが自分たちにとってご利益をもたらし役に立ちそうなものであれば主なる神でも偶像の神々でも何でも良かったのです。全ては自分たちのためであり、自分なりの基準によって判断していったのです。

それが宗教という罠でした。彼らは自分たちは主なる神も信じ、仕えていると思っていたのですがそれはどこまでも自己基準であり、自己満足に過ぎなかったのです。そこに全くなかったのが神の言葉でした。神の言葉に基づく礼拝もなく、神の言葉に基づく生活もなかったのです。そしてそれがイスラエルの民の罪であり、人間の罪なのです。

罪とは神の言葉という絶対的な基準を自分の基準、人間の基準に変えてしまうことだからです。神の言葉が失われるなら、どんなに熱心に神を礼拝しているように見えてもそれは生きた信仰ではなく、ただの自己満足の宗教、人間が作り出した偶像になってしまうからです。

生きた信仰は常に死んだ宗教、自分の思い込みという偶像へと堕落してしまう危険性があります。それが人間の罪の性質だからです。そして一度自己満足の宗教に堕落してしまうなら、それを生きた信仰へと回復させることは不可能に近いほど難しくなってしまいます。北イスラエルそしてその後のサマリアの混合宗教の歴史はそれを示しているのではないでしょうか?

それゆえ私たちは絶えず祈り、御言葉によって教えられ、戒められ。悔い改めることを通して生きた信仰を保っていかなければならないのです。自分が自己満足の宗教という罠に陥っていないか、いつも心を見張っていきたいものです。

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