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死んでも死なないいのちがあります

[列王記 第二 13:15,16,17,18,19]

エリシャが王に「弓と矢を持って来なさい」と言ったので、王は弓と矢をエリシャのところに持って来た。エリシャはイスラエルの王に「弓に手をかけなさい」と言ったので、王は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」

今日の聖書箇所
II列王13:14〜25

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

長い期間、活躍した預言者エリシャでしたが遂にこの地上の人生の最後、死の時を迎えることとなります。

しかしエリシャは死を前にしても信仰と霊の力に満ち溢れているのです。エリシャのしが近いことを聞いて北イスラエルの王ヨアシュがエリシャに会いにきて、エリシャをイスラエルの戦車と騎兵たちと呼んで最大限の敬意を表します。

[列王記 第二 13:14]

エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。

アラムの脅威を受けていた若いヨアシュ王にとって霊の力に満ち溢れていた預言者エリシャがいなくなることはとても不安だったのです。エリシャはそんなヨアシュに対して最後の預言、神の言葉を与えるのです。

東側の窓から矢を射させ、それがアラムに対する勝利の矢であると信仰によって宣言するのです。そして次に弓で地面を打たせるのですが、ヨアシュ王は3回でやめてしまいます。それを見たエリシャは5回も6回も打つべきだったと激怒するのです。そうするならアラムを滅ぼすことができたのに3回でやめたので3回しか勝利できないと預言するのです。

エリシャが命じたことはまず実際的な戦争に勝つ前に霊的信仰的な戦いで勝たなければならないということでした。信仰と祈りの矢を何度も何度も打たなければなからなかったのです。しかしヨアシュはその霊的信仰的な意味を理解することができませんでした。

地面を打っていったいどうなるかと人間的、肉的にしか判断できなかったのです。それゆえ3度でやめてしまったのです。エリシャが語ったアラムに対する勝利の矢という神の言葉を信じることができなかったのです。その不信仰のゆえにアラムを3度撃つことができたのですが、アラムを滅ぼすことはできませんでした。

私たちも霊的な戦いで不信仰になり中途半端な従順しかしないなら勝利することはできなくなってしまいます。私たちもまた祈ったけど駄目だったと途中で祈りをやめてしまうことがどれほど多くあることでしょう。またさらに主を求めて主に近づくべきなのにそれをしないで退いてしまうことがどれほど多くあることでしょう。

それなのに私たちは主は何もしてくれないと文句を言ったりすることが多くあるのです。主が何もしてくれないのではなく、私たちの祈りと従順の分量が足りないゆえに勝利できないだけなのです。

エリシャはその霊的な世界の法則をよく知っていたゆえにヨアシュの不信仰と不従順に激怒したのです。

このようにエリシャは死を前にしても霊の力と霊の感覚に満ち溢れ、預言者として国を救い、罪を戒めるという使命を力強く果たしていくのです。年老いて肉体的にはもう何の力もないのですが、若いヨアシュ王に霊の力を与えてアラムとの戦いでの勝利を授け、主のいのちと力を分かち与えていくのです。

エリシャの生涯は何と尊く、気高く、美しい生涯でしょう😭それゆえエリシャは肉体的には死んでもなお人々を生かしていくのです。

[列王記 第二 13:20,21]

こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。人々が、一人の人を葬ろうとしていたちょうどそのとき、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

エリシャの遺体の骨に触れた死人が生き返るという驚くべき奇跡が起こるのです。エリシャの骨にはまだ聖霊の油注ぎ、霊の力、いのちの力が満ち溢れていたということです。

このエリシャの最後の奇跡はエリシャが死んではいないこと、エリシャには永遠のいのちが与えられていてエリシャがやがて復活することを示しているのではないかと思います。。そしてこの奇跡は死んでも死なない永遠のいのち、復活のいのちがあることを私たちにも教えて、私たちが最後まで信仰と主からの使命に生きるならそのような復活の勝利が与えられることを示しているように思うのです。

肉体的には生きてはいても不信仰と不従順で霊的には死んでいるヨアシュ、そして肉体的には死を前にしていても霊的な力に満ち、死んでからも復活のいのちの力を示すエリシャ、私たちはどちらの人生を生きているのか、エリシャの死は私たちにそれを問いかけているのではないでしょうか?

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