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完全ではなくても最善を尽くす

[列王記 第一 15:11,12,13,14]

アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。また、母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を皇太后の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロンの谷で焼いた。高き所は取り除かれなかったが、アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。

今日の聖書箇所
I列王15:9〜24

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

アビヤムの子アサが王となります。

何もしなかったアビヤムとは異なり、アサは偶像崇拝によって腐敗したユダを建て直すために力強く宗教改革に取り組みます。

アサは国中から偶像を取り除き、偶像崇拝を関係していた神殿男娼も追放します。さらにはアシェラという偶像を作った母マアカを皇太后の地位から外すことまでします。

この時にユダは偶像崇拝が国中に広がってしまっており、もう手のつけられないような状態になっていたのです。しかしそれでもアサはもうしょうがない、仕方がないと諦めることはしませんでした。

信仰によって立ち上がり、偶像崇拝と激しく戦っていったのです。アサの信仰は行動する信仰、戦う信仰でした。このようなアサの信仰を主は高く評価されたのです。

信仰があるとはただ口先でイエス様、イエス様と言っていることではなく、このように具体的に実際的に行動を起こし、悪魔悪霊と戦っていくことなのです。

ヤコブは信仰についてこのように言っています。

[ヤコブの手紙 2:17]

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

信じているなら、必ずそれを表現する行動が伴うのであり、行いの伴う信仰が生きた信仰であり、その生きた信仰がその人を救い、人々を救うのです。

またアサの信仰は罪と戦う信仰でした。この時のユダには既に偶像が蔓延していたのでその戦いは激しく、厳しいものとなりました。それはアサの母マアカまで偶像崇拝者となってしまっていることからも分かります。

しかしアサは家族だからと言ってそれに妥協したり、諦めたりするのではなく、王としての地位と権力を用いて母マアカを皇太后の地位から外すことまでするのです。これはアサにとっても激しく心が痛む出来事だったのではないかと思います。

しかしアサはそのような私情を捨てて、国全体を偶像からきよめるためにそれを決断したのです。もしここでアサが母マアカの偶像崇拝を認めてしまったなら、あっという間にユダ全体が偶像崇拝に侵されてしまったことでしょう。

このように罪との戦いはとても厳しいものです。一瞬でも油断するなら罪はすぐに私たちに絡みついてきて、私たちを引きずり降ろしてくるのです。信仰があるとはこの罪と戦うことでもあるのです。

[へブル人への手紙 12:3,4]

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

主なる神はこのアサの信仰を高く評価され、その心は生涯、全きものであったと列王記は記しています。

しかしアサの生涯にも罪と失敗があったのです。

[列王記 第一 15:18,19,20]

アサは、主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉に残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王、ヘズヨンの子タブリンモンの子ベン・ハダドのもとに遣わして言った。「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも盟約を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バアシャとの盟約を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」ベン・ハダドはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨンと、ダンと、アベル・ベテ・マアカ、およびキネレテ全域とナフタリの全土を攻撃した。

アサは北イスラエルの王バアシャに攻められた時に、アラムの王に金銀を送り、自分の味方につけて北イスラエルを攻撃させ、バアシャを撃退するのです。

これは政治的軍事的にはアサの戦略の成功なのですが、信仰的霊的には不信仰という罪でした。アサが主なる神により頼むことなく人により頼んでしまったからです。

そしてこの不信仰の結果はアサの病気となって現れてしまいました。

[列王記 第一 15:23]

アサのその他のすべての事柄、すべての功績、彼が行ったすべてのことや彼が建てた町々のこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。ただ、彼は年をとってから、両足とも病気になった。

アサも最初の信仰を最後まで保つことはできなかったのです。また偶像崇拝の根である高き所を取り除くことまではできませんでした。

このようにアサにも多くの限界があり、失敗があったのです。それにも関わらずアサが高く評価されているのは主なる神の愛と恵みを現しているのではないかと思います。

主なる神は私たちの弱さや限界をよく知っておられ、その中で最善を尽くすことを喜ばれるということではないかと思います。どんなに優れた人でも完全な人は一人もいません。私たちには皆、それぞれ弱さと限界があるのです。

しかしそれに甘えて仕方がない、しょうがないと諦めて何もしないのではなくその中で主の恵みにより頼んで最善を尽くすこと、それを主は望んでおられるのではないかと思います。

完全ではなくても、それでも最善を尽くす時、主は私たちにこのように語ってくださるのです。

[マタイの福音書 25:23]

主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

今日の祈り
主よ、罪との戦いはとても厳しいものですが、立ち上がって行動し、最善を尽くす信仰を与えてください。その信仰によって主が喜ばれる生涯を歩ませてください。

緑の牧場グレースチャーチ
牧師 股村 大

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