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罪の赦しと罪の刈り取り

[列王記 第二 21:11,12,13,14,15]

「ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い、実に彼以前にいたアモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。わたしは、サマリアに使った測り縄と、アハブの家に使った重りをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去る。わたしは、わたしのゆずりの民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となって奪い取られる。それは、彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日まで、わたしの目に悪であることを行って、わたしの怒りを引き起こしたからである。」

今日の聖書箇所
II列王21:10〜26

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

マナセの罪が詳しく列挙され、そしてその罪の結果がいかに悲惨なものになったかが記されています。

マナセの罪はカナンの先住民族であったアモリ人の罪より悪かったと記されています。アモリ人はその罪のゆえにイスラエルによって滅ぼされてしまうことになります。

マナセは偶像崇拝による呪いを国中に広め、またそれだけではなく無実の人の血も大量に流したのです。

[列王記 第二 21:16]

マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。

そして主なる神はマナセを始めとするイスラエルの民の歩みを正しく評価され、マナセもイスラエルの民もそれに相応しいものを受け取ることになると告げるのです。

測り縄と重りとは建築する者たちが使う建物の水平を測る道具です。神はご自身の御言葉という基準に基づいてご自分の民がそこからどれほどずれているかを測り、それに相応しい裁きを下すと言われているのです。北イスラエルとアハブの家はその基準によって測られ、その罪に相応しいものを刈り取ることになったのです。

主なる神はマナセだけではなくイスラエルの民がエジプトから出た日以来の罪を全て正確に記録し、評価され、それに相応しいバビロン捕囚という刈り取りを与えると言われているのです。

主なる神は何百年もの間、イスラエルに預言者たちを送り続け、ご自身とその御言葉に立ち返るようにと悔い改めを語り続けてきました。しかし一時期を除き、イスラエルの王も民もそれに耳を傾けることはなく、心頑なにしてそれを拒み続けてきたのです。そして遂に神の忍耐の時が終わり、彼らは自分たちの罪の刈り取りをすることになったのです。

南ユダの滅亡の直接的な原因はマナセによる数々の罪でした。しかしそれだけではなくイスラエルの民がエジプトから解放されて以来の罪が積もり積もってとうとうバビロン捕囚という滅亡を避けることができなくなったと言っているのです。

実はマナセは晩年、神の懲らしめを受けて悔い改めます。

[歴代誌 第二 33:10,11,12,13]

主はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった。そこで主は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。

主の憐れみは深く、これほど大きな罪を犯したマナセでしたが懲らしめを受けへりくだり、悔い改めた時にその罪は赦されていったのです。しかしだからと言ってその罪の刈り取りまで免れたということではなかったのです。マナセの罪は赦されましたが南ユダはマナセの罪を含めて全ての罪の刈り取りをすることになってしまったのです。

イエス・キリストを信じる者たちが陥る間違いの一つに罪の赦しによって罪の刈り取りまでしなくても済むと考えてしまうことです。

確かにイエス・キリストの十字架の血による贖いを信じるならどんな罪も赦していただけるのですが、それは罪の刈り取りまで免除されるということではありません。なぜなら私たちは自分の人生については自分で責任を取らなければいけないからです。私たちの人生は毎日が選択の連続ですが、やがてその選択について責任を取らなければならなくなるということです。

私の人生がこうなったのはあの人のせいだと言うことはできませんし、神のせいだと言うこともできませんし、悪魔のせいだと言うこともできないと言うことです。

もちろんそれらは私たちの人生に大きな影響を与えるのですが、最終的に何をどのように考え、何をするかを選択していくのは私たち自身であるからです。その選択の一つ一つについて全てが記録され、やがてそれに相応しいものを受け取っていくことになるのです。

[ヨハネの黙示録 20:12]

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

人は蒔いたものを刈り取り、行いに応じて裁かれていくことになるのです。それゆえイエス・キリストを信じるならどんな罪も赦されるのだから罪を犯しても大丈夫とか、もう罪なんて気にしなくてもいいとか、神は愛だから罪の悔い改めなんて必要ないかとそんな人の肉には心地よい教えがいかに恐ろしい偽りであり、惑わしであるかを知らなければなりません。

私たちの人生を細部に至るまで知り、その行いに応じて正しく評価し、裁かれる方がいるのですから、私たちは罪の赦しに甘んじることなく日々罪を悔い改め、罪から離れて御言葉に従っていくべきではないでしょうか?イエス・キリストを信じて救われた者は天の報いと冠を受けることができるように救われた者らしく歩んでいくべきではないでしょうか?

しかし弱い私たちにはそれができないので絶えず祈って聖霊様の力と助けを受けてそのように生きていくべきではないでしょうか?次の御言葉の警告を心に刻み、真理に従う人生を歩んでいきたいものです。

[テモテへの手紙 第二 4:3,4]

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

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