見出し画像

アイデンティティが崩れるなら全てが崩れます

[列王記 第二 23:25]

ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。

今日の聖書箇所
II列王23:21〜30

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ヨシヤ王の徹底的な宗教改革の締めくくりは国をあげて過越の祭りを祝ったことでした。

過越の祭りはその昔,イスラエルの民がエジプトで奴隷からモーセを通して解放され,約束の地カナンへと向かっていったことを記念し,そのように自分たちを救ってくださった主なる神の恵みに感謝を捧げる祭りです。

主なる神は律法の中で毎年,過越の祭りを祝うように命じていたのですが,イスラエルの民はカナンの地に入ってから何とヨシヤ王の時代まで一度もそのような過越の祭りを国家的に祝ったことがなかったのです。

[列王記 第二 23:21,22,23]

王は民全体に次のように命じた。「この契約の書に記されているとおり、あなたがたの神、主に、過越のいけにえを献げよ。」実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが主に献げられただけであった。

なぜ北イスラエルも南ユダも滅亡するしかなかったのかが分かるのではないでしょうか?神は律法を通してしてはならないことを教え,そしてしなければならないことも教えたのです。

しかしイスラエルの王と民がしてきたことは神がしてはならないと言われた偶像崇拝と混合宗教をなし続け,神がしなければならないと言われたことは何一つしてこなかったということです。

ヨシヤ王の徹底的な改革はしてはならないと言われた偶像崇拝を取り除くことで精一杯でしなければならないと言われたことをなすところまでは手が回らなかったのです。ようやく過越の祭りを祝うところまでいったのです。それまでの歴史で初めてそれを行ったのです。

それを通してどれほどイスラエルの民が神の律法,神の御言葉から遠くかけ離れていた状態になっていたかが分かります。イスラエルの民がエジプトの奴隷から救われたのは神の御言葉に従い,全ての民族の祝福の基となるためでした。それがアブラハムに与えられた約束であり,神のご計画でした。

[創世記 12:1,2,3]

主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

しかしイスラエルの民は自分たちがなぜ主なる神によって救われたのか,自分たちにどのような使命と目的があるのかもすっかり忘れ,ただ自分中心に肉の欲を満たし,この世での繁栄と祝福だけを求めて生きてしまったのです。その結果が偶像崇拝と混合宗教でした。

そのようにしてイスラエルの民は他の国々と民と同じような者となってこの世の人々とすっかり同化してしまったのです。それでは神の選びの民としての存在理由がありません。

ヨシヤ王はようやくイスラエルの存在理由,存在目的を思い出さなければならない,神の民としてのアイデンティティを回復しなければならないと気づき,律法に従って過越の祭りを祝うこととしたのでしょう。それは素晴らしいことでした。

しかし同時に歴史の中でイスラエルの民がそれに気づくのが遅すぎたのも事実です。なすべきことは何もしないで,してはいけないということだけをなし続けてきたイスラエルの民はもう取り返しのつかないところまで腐敗し,全てをリセットしなければならない状態になってしまっていたのです。そのリセットこそバビロン捕囚でした。

[列王記 第二 23:26,27]

それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。主は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」

それゆえヨシヤの徹底的な改革にも関わらず,南ユダも滅亡するしかなくなったのです。ヨシヤ王の悲劇的な死はそのような神の怒りと裁きを象徴するものなのでしょう。

しかしヨシヤの神に対する献身と愛そしてその情熱的な信仰は決して無駄ではありませんでした。それは主なる神に確実に覚えられており,聖書はヨシヤ王に最大限に評価を下しているからです。ヨシヤの改革はこの地上では報いがほとんどなかったかのように見えますが,天での報いと冠は大きなものとなったでしょう。

そしてそればかりではなく南ユダがバビロン捕囚から解放され,もう一度神殿を再建することができたのはヨシヤ王の改革があったことも大きいのではないかと思います。なぜなら北イスラエルは滅亡したまま散らされてしまいましたが,南ユダは滅亡しても再び回復される恵みを注がれるからです。それはヨシヤ王の神に対する真実な愛と献身への報いではないかと感じます。

私たちにも生かされている時代,そして置かれている状況,環境という限界があります。難しい時代で困難な環境,状況の中に置かれてしまうことも多いのです。しかしそれにも関わらず私たちが主の御前に最善を尽くしていくならそれは決して無駄にはなりません。私たちの時代に報いは来ないかもしれませんが,天での報いは確実であり,次の世代に主はその報いを与えてくださるかもしれないのです。

それゆえ今,生かされている時代を嘆かず,与えられた難しい状況,環境にも不平を言わずに,主の御前に忠実に真実に歩んでいきたいと思います。

イエス・キリストの十字架の血の贖いと復活による救いに対する感謝を忘れず,救われた神の民らしく一歩一歩御言葉に従い,祝福の基として歩むことができるよう祈っていきたいと思います。

そのように歩むなら誰が見ていなくても主がそれをご覧になり,天での報いと冠を用意してくださり,次の世代への祝福のためにその人を用いてくださるからです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?