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どうすれば勝ち負けにこだわらず生活できるだろう?

一般的に「勝ち負け」とは、限られた資源(例えば給与、より良いポスト、より価値のある商品、etc…)に対してであり、スポーツも勝者という栄誉を巡る競争だ(プロは利益を得る)。勝利のためには各個人は利己的に振る舞う必要があり、または所属する集団全体の「利益」が優先される。

これは僕自身にも、もちろん当てはまり、東京で暮らし始めてからは社会集団利益よりも個人(と家族)の利益をどう最大化するかに力点を置く生活を続けてきた。
しかし現代の自由競争経済、特に都会では、これがもう極端にまで進み、様々な問題が死屍累々だ。資本主義の終焉、と言った言葉も最近はよく聞く。それはひとえに競争社会の敗者、あるいはもう勝負を降りたヒトたち、降りたいと願うヒトたちの膨大な数と、その上に一握りの勝者を自認するヒトたちといういびつな構造が際立ってきたからだろう。
そしてその結果のひとつとして、近年のデジタル化、SNS匿名性の増長により、個人主義が極端に目立つようになった。つまり自分ファースト。そうでないと勝者(と自認するヒト)以外にとっては「生きている心地がしない」のかもしれない。

利己的でない、新しい現代の「勝ち負け」概念

現代の勝ち負けは、更に「利己的」だけでは説明が付かないこともある。
内田樹先生は姜尚中氏との対談の中で、以下のように考察している。

もし本当に利己的に振る舞うのであれば、<中略>どうすれば集団としてのパフォーマンスが上がるかをまず考えるはずなんです(長期的に見たらより多くの利益が期待できる)。でも実際に起きていることは、日本にしてもアメリカにしても、自分たちにとって不利な政策を行い、自己利益を損なう人間を統治者に選んでいる。明らかに非合理なんです。これを説明するためには、人間が自己利益を増大させることよりも、同じ集団内部で相対的有利に立つことの方を優先する法則を受け入れなくてはならない。「利益」よりも「勝利」の方がたいせつなんです。

新世界秩序と日本の未来 米中の間でどう生きるか(内田樹・姜尚中)

実はこの解説は、自分たちの生活が明らかに悪くなる政策をし続ける自民党がなぜ大勝するか?の議論文脈のなかの一文であるが、ここの重要なことは『同じ集団内部で相対的有利に立つことの方を優先する法則』である。
つまり中長期的に自分たちが得するような(利益を得る)ことよりも、目先の「勝ち」、すなわち自分が周りよりも優位なポジションにいるという自己満足(一時的安心)、=>「自分は勝ち組」という思い込みが、その「場」その「時」を生きるための、とても重要な「個人の価値観」になっているという概念だ。

ちなみに、ついでにいうと、上記に関連した、若年層の自民党支持率が高いという事実(労働者層にとってのトランプ政権も然り)に関して内田先生の見解は、

自分の支持政党が政権の座にいる、自分は「野党支持者に勝った」という権力者との幻想的な一体感がもたらす愉悦の方が、自分がその無能な政権によって受けている苦痛よりも大きい。(トランプ政権の際と同様に)自分は政権からいかなる恩恵も受けることができない最下層労働者であっても、権力者と同じ「勝ち組」に属しているというファンタジーのおかげでいい気分になることができる。

それくらい、「勝ち組/負け組」という呪縛が世の中を席巻しているということなんだよな。これはとても良くわかる。その中でとても苦労したので。

でもこの勝ち負けは、その時の一瞬の「個人的」な「氣持ちよさ」にしか繋がらない。何も生み出さない、何も伝わらない。ここだけに価値基準を求めたら、延々とその呪縛に取り憑かれるだけだ。

でもそういうヒトは周りにたくさんいる。自分たちがそうならないように意識することと、そのように考えてしまう知人・友人がいたなら、一緒に考えていくしか無い。

その一つの答えが『贈与』の知覚機能の再認識だと僕は強く思う。

ちなみに、「贈与の連鎖」ってこう言うことで良いんだ。

ちなみに贈与の連鎖って、こういうことで全然良いんだと氣がついたので、忘れないうちに書いておく。

この贈与論に氣がついたのは、
 ●柄谷行人氏の交換様式の話を、佐藤優氏が勉強会で喋る
   ↓
 ●勉強会に連れて行ってくれた友人が柄谷行人氏について教えてくれる
   ↓
 ●柄谷行人氏の本を読む、ネットで調べる
   ↓
 ●交換様式Aの「贈与」というワードに氣が付く
   ↓
 ●たまたまラジオで山口周氏が、近内悠太氏の著作である
  「世界は贈与でできている」を紹介しているのを聞く
   ↓
 ●「世界は贈与でできている」を読む、近内悠太氏をネットで調べる
   ↓
 ●近内悠太氏は内田樹先生の「困難な成熟」を読み、贈与に関する
  本を書いた、ということを知る。
   ↓
 ●「困難な成熟」を読む。
  あーーー、ここに書いてあることがすごいと氣が付く。
   ↓
 ★いろいろ理解できたことを僕が自分なりに整理し自分の言葉で発信する

つまり僕はこれだけを「受け取っていた」わけで、その結果、いつものように内田先生の著作にたどり着いて感動するというサイクルになる。

更にいうと、内田先生ご自身も、エマニュエル・レヴィナスやレヴィ・ストロース、多田宏師範というたくさんの師から学んだこと(贈与されたこと)を、我々に伝えている(贈与)と言っている。
近内氏も同じで、「世界は贈与でできている」のベースが実は「困難な成熟」の焼き直しであっても、それは近内氏が内田先生から受け取ったものを、「僕に」お返ししてくれたということなんだよね。もちろん近内氏は僕を知らないけれど、僕はそれを僕のためにメッセージしてくれたと知覚した。更に近内氏からのメッセージの方が一般的な多くの方に届く訳である。
内田先生が、他にもたくさんいろいろなところで贈与に関して書かれていることはダイレクトには僕には届かなかったけれども、結果としては届いた。
それが贈与の連鎖だ。

しかし、、、、知らないことが多いなぁ。
改めて無知の知。

際限ない欲が僕たちを見えなくする

さて、なぜ勝ち負けにこだわらなければならないのか、資産を溜め込まないと安心できないのか?
「際限がない欲」と、「誰にとっても見えない未来への不安」の2つが、少なくとも貨幣主義により、「お金は多ければ多いほうがよい」「お金を貯めなければならない」という強迫観念を僕らにもたらす。

しかし前者は、そろそろ人間として見直しても良い頃合いだろう。だって資本主義経済の祖とも言えるアダム・スミスですら、「国富論」を書く前の「道徳感情論」の中で、すでに個人の利己的な利益(欲求)を追求するのではなく共感が大切で、道徳と義務を確立する必要があると説いているんです。欲望のまま生きるのは人間ではないと。

後者は、もう見えない未来に不安を抱えて対処しようとするよりも、来たるべきカタストロフ(例えば次の大地震とか自然災害とか)がいつ来ても良いように、生きる知恵や信頼できる助け合い体制づくりを考えたほうが賢いよね、と僕は思う。

そのためにこそ、まず、被贈与的感覚を知覚できるように、こころに余裕を持ちたいな、と思う。
自分に対して発せされているメッセージは、実はたくさんある。
大切な家族からも、友人からも、恩師からも、師匠からも、自然からも、イヌからも、ネコからも、、、
「受け取った」と思ったら、「お返ししよう」と思うこと。
なんて、シンプルで、素敵なことなんだろう。。。。

日本にある武道の精神は。

日本の「武道」は、英語ではJapanese Traditional Martial Artsと訳されるので、格闘のための技術、相手に勝つための身体技術として捉えられることが多いが、本来の「武道」は決してそうではない。勝ち負けではない。故にスポーツでも競技でもない。
「武道」の定義はきっとたくさんあると思うですが、僕は『天下無敵』という解釈がとても好きです。これも内田樹先生の本からの受け売りですが。

「蓋(けだ)し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず」

『太阿記』澤庵禅師

『天下無敵』とはすべてのライバルを倒し世界一になるという意味ではありません。自分の周りに「敵を作らない」ということです。
(しかし、澤庵禅師の言葉のように考える武士は、実際は多くなく殺傷能力技術を極めようとする修行者は多かったとされています。だからこその言葉として澤庵禅師の言葉が今でも残っている)

自分にとって「敵」になりそうな要素を、ひとつひとつ取り去ることで、敵対関係がない状態を作り出すという、長い長いプロセス=道が、武道の道であるという解釈が本当に好きです。

武道では、緊急時や非日常での突発的な場面に遭遇したときにも、動じず対応していくための心構えと身体技術をひたすら磨く、ことであって、決して相対する相手を倒すための勝ち負けの技術ではない。逆に、突発的な対応する際には周りにある要素は何でも使う、すなわち相対する相手の身体能力をも自分の中に取り入れることも含まれる、とされる、、、、、。すごい。

武道的思考は、けっして侍だけの思想ではありません。日本人はそのDNAの中に刻まれていると思っています。この概念は、日本を除く海外の国にはないとされています。そんな素晴らしい思想を僕らは生まれたときから持っている。

だから、困ったとき、苦しいときに相手を打ち負かそう、優位に立とうとするのではなく、様々なメッセージを受け取る知覚能力を磨いて、そのメッセージを感じられるようになる、受け取れたら、お返しする、という『贈与』の流れ、武道的思考を作れるようになりたい。

そして、、、無知であることを知り、新しいこと、新しい範囲を理解できること、勉強ができることに感謝。

余談

僕は、合氣道という武道をお稽古しています。
僕の師匠からは、「頭でいつも考えすぎなんだよね、考えないで動く、身体で覚えるしかない、とにかくもっとお稽古の数。」「(技が)できた、なんて私も思ったことがない(※師匠は6段!)。いつまでやっても分からない事が多い。だから(あなたが)できなくて当たり前。」といつもご指導いただきます。
合氣道をし始めてから、ただ「立つ」ということ、「歩く」ということすら、できていない自分に驚きます。何から何まで「慣れ」をリセットしないと、始まらない。
僕は合氣道を習い始めたのがとても遅いので、このリセットがなかなかできない。。。でも、奥が深くて、日本の「道」の虜です。
2023.1.29

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