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庭が息を吹きかえしたので


「あのさぁ、俺、就職しようと思うんだよねぇ」
 和寿がさらりとそう言ってのけたので、喜美子は正直驚いた。
 信じられないにもほどがあり、そっと耳にてのひらを押し当てる。もしかするとある種の難聴が生じているのかもしれない、そう思ったからだった。
「俺さぁ就職しようと思うんだよねぇ」
 母の奇行には気づかぬようで、もう一度、和寿は言った。彼は彼で、寄る年波に流されっぱなしの母の聞こえを案じたのだ。
「へーぇ、そう。いいじゃない、いいじゃない」
 つとめて軽くふるまう母の姿を見て、和寿は大学卒業以来ここ数年かけっぱなしだった苦労の数々に思いいたり、まだ就職先さえ決まらないのに胸にくるものがある。
 気丈な母はひとことも和寿を責めたことがない。近隣の人々は彼女を形容するのに、豪放磊落と口をそろえた。

「で、どういう心境?」
 動悸めいて鼓動する心音をさとられぬよう、喜美子。
 縁側に垂らした脚の揺れを眺めながら、和寿は小さく笑った。
 豪放磊落が聞いて呆れる。元来母は肝の小さいたちである。そんなことは長年一緒に暮らしていれば分かることだ。
 若干神経質で、気を使いすぎるところがあり、姉の誘拐劇の顛末を後悔している。
 あんなことがあったのにお元気で……そんな言葉を口にした近所のババアに殴りかかりたいぐらいには、和寿もその心中を察している。
 だから今、背後の食卓で西瓜をかじる母が一体どんな表情をしているのか、和寿には分かる気がした。
 くしゃっと歪められた母の泣き顔は一度しか見たことがない。
 姉の葬式。
 決して開けられなかった棺の蓋……かすかに臭う腐臭を塗り込めるかのよう、線香の煙が濃く……母は棺に寄り添うようにして泣いた。
 きっとあの泣き顔に近い顔をしている、和寿は思う。それでもいつ和寿が振り返るか分からないから、ぐっとこらえているに違いないのだ……その顔を想像しただけで、和寿は目頭が熱くなる。
 眼前の小さな庭にたまった夏の日差しがまばゆく、だから和寿が腕で乱暴にぬぐうのは流れ落ちる汗に決まっている。少なくとも、母にそう見えていればいい。
「まぁもういいかなーって」
 いかにも頭の悪そうな回答になったが、しかしこればかりはしょうがない。
 親子の会話に本来言葉は重要でない。あやふやな言葉に包みこまれた本当の意味をすくいとるすべは、長年の生活でつちかわれている。
「ふぅん、あんた本当にいい加減ねぇ」
 母の言葉にもふんだんにその法則が紛れこんでおり、その穏やかな温さにふたたび和寿の目頭はつんとした。

 ぼやけた視界に、夏の花が騒がしい。姉を失って一時期、荒廃した庭は、時を経てふたたび蘇った。
 母が草を抜き、和寿が土をたがやし、苗を植え、種をまき、数年をかけて庭は息を吹きかえした。
 とりどりの彩があふれる庭は姉が愛した頃のものとは微妙に違う。けれど残された親子は、このにぎやかな庭を愛した。
「……まぁいいじゃん。終わりよければ全てよし」
「まだ始まってもないでしょうに」
 輝く庭を眺めながら、ふたりは家族の年月を思った。
 地獄のような数年と、再生への歩みがはじまった数年と……合間に喜美子は離婚し、和寿は卒業や入学をはさんだ。

 目まぐるしく時は流れ、様々なことがあり、ある日ふと和寿が振り返ると、姉の消失は恐ろしいほど過去になっていた。
 ああこのまま過ぎ去ってゆくのか、そう思うと、どっと手のひらに汗がにじんだ。
 かつていた姉は果てしなく過去になり、その実在を証明するものは写真と仏壇のほか何もなく、それを思うとあまりの理不尽に和寿はくらくらしたのだった。

 その日から正体不明の体調不良が和寿をおそい、就活どころか大学の講義の出席すらままならなくさせた。
 姉が、いない。
 ……自分はいる。
 そのどうしようもない罪悪感は常に和寿の胸をくもらせた。
 縁側に座り、野放図においしげる雑草をながめ暮らす日がつづいた。

 ある日、庭を眺めると母がいた。
 軍手をはめ、片端から雑草を抜いてゆく。そのすまじい鬼気に気圧され、ぼんやりと眺めていると、母が振り向きざまに軍手を投げてよこした。
「あんたも抜くのよ」

 ーー雑草を抜くのに何日かかったことか。
 草だけならず、鳥たちの落としていった種から発芽したと思しき、見知らぬ木さえ伸びていた。
 投げやりにちぎった草は次の日にはもう根を下ろし、スコップで掘り返した根はたくましく再生し、ふたたび雑草の芽が土を割った。
 荒廃した庭を新たに家族のてのうちに戻すのは、途方もない汗と労力を要した。
 来る日も来る日もふたりは草を抜き、かたくなった土を耕し、肥をまき……庭が小規模な復活をとげたのはその年の暮れのことだった。

「あーあ、こんなに綺麗にしたのになぁんにも花がない」
 喜美子はぽつりとそう漏らし、冬の寒空を見上げた。
 秋に植えた草木はまだか細く、花どころかとてもではないがこの冬を越せそうな気がしない。見るからに侘しい庭の景色に見入る和寿に、喜美子は言った。
「いい? そろそろ霜除けがいるわよ」
 しっかりとした声音は、冬などにこの庭を荒らさせないと確かな意志が込められていた。

 冬が訪れ、去った。
 庭はごく小さな命を守りきった。
 それから親子は丹精し、青々としげるあたかも森のような庭ができあがった。
 春には爛漫の花が咲き、夏には緑陰がこぼれ落ち、秋には楚々たる秋草が揺れた。
 姉のいない景色を、親子は受け入れた。

「本当にあんたはいくつになってもぐうたらで」
 ここにきて喜美子はさえずる小鳥のようだ。春を迎えたかのよう、喋々と、嬉しそうに愚痴をのべたてる。目を細め、耳をすましながら、和寿は、
「……まあまあ、いいじゃない、細かいことは」
 並ぶ親子の視界には、輝かしい夏の庭、満目の花。

#あの選択をしたから

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