「バチェラージャパンをジェンダー論から考える」
「バチェラージャパン・シーズン5」がAmazonプライムビデオで絶賛配信中である。
バチェラージャパンについては、今さらくどくどと説明する必要はないだろう。生涯のパートナーを探している男性(バチェラー)をめぐって15人余りの女性が壮絶な争奪戦を繰り広げるという、恋愛リアリティショーである。
私自身、バチェラージャパンはシーズン4から見始めてその豪華さとクオリティの高さにハマり、バチェロレッテを含めて過去シリーズをすべて見尽くしている。その意味ではバチェラーファンと言ってもいいかもしれない。
そのうえで、今回はあえてバチェラージャパンシリーズをジェンダー論の観点から考察してみたい。
大前提として、バチェラージャパンへのジェンダー論からの批判には大きく以下の2点が挙げられる。
女性が選ばれる前提になっている
恋愛や結婚に価値を置きすぎている
まず、1について。
確かにバチェラーシリーズでは、1人のバチェラーが複数の女性(シーズン5では16名)とデートを重ね、最終的に1人の女性をパートナーとして選ぶルールとなっている。その意味において、バチェラーが「男性が女性を選ぶ」構図であることに間違いはない。
しかしながら、バチェラーシリーズの姉妹編として女性が1人のパートナーを選ぶ「バチェロレッテ」がすでにシーズン2まで配信されている。
また、バチェラーシリーズにおいても、女性はただただ選ばれるだけの存在ではない。参加者の女性にはバチェラーからのローズ(選ばれた証)を拒否する権利が認められており、たとえ選ばれたとしてもバチェラーとの相性が合わないと判断すればその時点で旅から離脱する行為が認められている。
実際、過去シリーズではバチェラーからのローズを受け取らず、旅を放棄した女性がいた。
つまり、選ばれるのは女性だけではない。CMの審査員を描いた映画「ジャッジ!」ではないが、「本当の意味で値踏みされているのはバチェラーのほう」なのである。
そして、この微妙な緊張関係が保たれているからこそ、バチェラーと女性陣は対等なのだ。
次に2だが、これについてはもはや考察する気にもなれない。
だって、そういうものだから。
結婚を心から望んでいる男女が参加するイベントなのだから恋愛バンザイ、結婚っていいよね的な空気になるのは当たり前だ。
それに何より、バチェラー(バチェロレッテも含めて)はあくまでもエンタメであり、壮大なるゲームなのである。エンタメに関して感情論にすぎない横槍を入れる。それはすなわち野暮というものだ。結婚というライフイベントをエンタメ化することへの批判は成立するかもしれないが、それもエンタメである以上、「嫌なら見なければいい」というひと言で終わってしまう。
バチェラー6もこの調子で突き進んでほしい。
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