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知ってるつもり 無知の科学

「知ってるつもり」は、思い込み、誤解、偏見を生み出し、正しい判断を妨げます。

その結果、仕事や人間関係、プライベートなど、あらゆる面で失敗を招いてしまう可能性があります。

本書では、知性の本質について考察し、真の理解を深めるための具体的な方法を提示します。

3分で読める本要約(管理人)





①思考は集団的行為である

脳科学によると、個人の知識は驚くほど浅いにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。

その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。
どれだけ知識があっても、わかっていないことがわかっていないことを予想することはできず、しかもそれは頻繁に起こる。

ではなぜ、たいていの人間は限られた理解しか持ち合わせていないのに、これほど多くを成し遂げてこられたのはなぜなのか。

人間はミツバチ、社会はミツバチの巣に例えることができる。
知性は個体の脳の中ではなく、集団的頭脳の中に宿っている。
そうした知識をすべて足し合わせると、人間の思考はまさに感嘆すべきものになる。
人間の協力する能力、複雑な事業を成し遂げるために心を一つにして事にあたる力が、一見不可能なことを可能にしたのだ。


②思考は何のためか

思考の目的とは「行動」だ。

思考することで、それぞれの行動の効果を予測したり、過去に別の行動を取っていたら状況はどのように変わっていたかを想像したりすることができ、その結果さまざまな選択肢のなかから有効なものを選べるようになる。
思考の仕組みを理解するのは、これほど簡単なことではない。
行動のための思考とは、どのように行うのか。

人間は世界がどのような仕組みになっているか、すなわち因果関係の推論を得意とする。
それが知性本来の目的である。

最適な行動を選ぶうえで因果関係がそれほど重要なのであれば、なぜ世界の仕組みについて個人の詳細な知識はこれほど限られているのか。
それは、思考プロセスは必要な情報だけを抽出し、それ以外をすべて除去するのに長けているからだ。
そのおかげで新たな状況できわめて微少かつ複雑な共通点や差異に気づくことができ、経験したことのないような場面でも適切な行動を取ることができる。

新たな状況で行動するためには、個別具体的な詳細情報ではなく、世界がどのような仕組みで動くのか、そのおおもとにある規則性だけを理解しておけば事足りる。


③知識のコミュニティ

人類が成功を収めたカギは、知識に囲まれた世界に生きることにある。

知識は私たちの作るもの、身体や労働環境、そして他の人々の頭中にある。
認知科学者のいう「認知的分業」は、いつの世の中にもあった。
農業、医療、製造、音楽、料理、をはじめ、さまざまな分野にコミュニティの専門家がいた。
あらゆる料理を作れるシェフはいない。
あらゆる楽器、あらゆるジャンルの曲を弾ける音楽家もいない。
なんでもできる人というのは存在しない。
だから人は協力するのだ。

技術や知識を簡単に共有できるのは、社会集団で暮らすことの大きなメリットだ。
私たちが自分の頭にある知識と、他の人々に頭の中にある知識を区別できないのも不思議ではない。
なぜならどんな作業をするときも、たいてい(いつも、と言ってもいいかもしれない)両方使うからだ。

私たちが知識の錯覚の中に生きているのは、自らの頭の内と外にある知識の間に明確な線引きができないためだ。
それができないのは、そもそも明確な線など存在しないためである。
だから自分が知らないことを知らない、ということが往々にしてある。


④なぜ間違った考えを抱くのか

因果的推論には2タイプある。
本書では「直観」と「熟慮」と呼ぼう。

直観は私たち自身が生み出すものであり、それは個人の思考プロセスの産物であるということだ。

一方、熟慮は違う。
熟慮の一つのやり方は、他者と話すように、自分自身と語り合うことだ。
集団は一緒に直観を生み出すことはできないが、共に熟慮することはできる。
コミュニティとともに熟慮することで、直観的因果モデルに内在する弱点や誤りを克服できる。


⑤直観、熟慮、説明深度の錯覚

説明深度の錯覚とは、私たちは因果システムを自分が思っているほど理解していないということだ。
この錯覚は、直観的思考の産物である。
私たちは物事の仕組みを、労力をかけずに自然と思い浮かべる。
それは何かをそれなりにわかっているという錯覚を抱く原因となる。

CRT(思考テスト)で高得点をあげた人々は、なぜ説明深度の錯覚を示さなかったのか。
われわれの研究はその答えを示唆している。

この実験では一般消費者に、それぞれ説明の詳しさが異なるたくさんの製品広告を見せた。
熟慮型の経験者(CRTのスコアの高い人)は、詳しく説明されている製品を好む傾向があり、CRTのスコアが低い人は、ほんのわずかしか説明がない製品を好んだのである。
熟慮型の人は詳細な情報を求めることにより、説明深度の錯覚に陥ることが少ないはずだ。

直観は個人的なものだ。
それぞれの頭の中にある。
一方熟慮には、個人として知っていることだけでなく、ぼんやりとしか知らないことや表面的にしか知らないこと、すなわち他の人々の頭の中にある事実も使われる。
たとえば何かを決めるときには尊敬している人のアドバイスに耳を傾けるかもしれない。
そういう意味では、熟慮は知識のコミュニティの力を借りていると言える。


⑥他者を使って考える

たった一人の思考はたかが知れている。
自然界では、複数の個体が協調することで、高度な行動が可能になることが多い。
複数の認知システムが力を合わせると、個体の能力を超える集団的知能が出現する。

その最たる例がミツバチだ。
ハチの群れは素晴らしく複雑で、その各部を足し合わせたよりも大きな力を発揮する。
ハチの群れが機能する原理は、企業と同じである。
異なる個体は共同体の中で異なる役割を果たす。
働きバチは交尾ができない。
雄バチは食料を集められない。
女王バチには幼虫を世話することはできない。
それが全体としてうまく機能するのは、各個体がこのきわめて複雑な行動システムを支える比較的シンプルな仕事を担っているためだ。

人間の個体はハチよりも賢い。
ただ別のレベルで見ると、人間とハチには重要な共通点がある。
どちらも複数の個体が協力する能力を活かし、途方もない知能を生み出す。
人類が史上最も複雑で、強力な種であるのは、個人の脳の力量のためだけでなく、多数の脳が「協力」しあうためだ。


⑦思考の延長としてのテクノロジー

われわれは医師と看護師を対象にあるアンケート調査を実施した。
内容は診察を受ける前に、医療専門サイトで病名を検索してくる患者と接した経験を尋ねたのだ。

回答者は、そうした患者は事前にネット検索をしなかった患者と比べ明らかに豊富な知識を持っている訳でもないにもかかわらず、自分の医療知識にかなり自信を持っている傾向があると答えた。
問題は、ほんの数分(場合によっては数時間)サイトを見ても、信頼できる医学的診断を下すのに必要な専門知識を得るために何年もかけて勉強する代わりにはならないということだ。


⑧科学に対する国民の理解

科学技術への抵抗は、理解不足が原因となっている。
だから科学への理解を促進すれば、国民の科学に対する好意的な態度が醸成され、科学技術のもたらす恩恵を積極的に活用するようになるのではないか、と考えられていた。

現実には、こうした試みは何十年も続いてきたにもかかわらず、全員の科学リテラシーを高めることはできていない。
反科学主義的思考は依然として萬栄し、強固で、教育はその解消に役立っていないようだ。

ワクチン接種反対の存在は、教育が意識を変えるに役立たなかった一例である。
この実験は、子供を持つ親を対象に、情報を提供することがMMR(麻疹、おたふくかぜ、風疹)ワクチンの受容を促す効果があるか調査してみた。
まず被験者にさまざまな形で具体的な情報を与え、それからワクチン接種とその重大な副作用とみられていた自閉症の関係性についての意見を尋ね、さらに子供にワクチン接種を受けさせる意思があるか尋ねた。

一番目の被験者群が与えられた情報には、ワクチンを受けないことによって起こりうるマイナスの影響がいろいろ含まれていた。
二番目の被験者群は、麻疹、おたふくかぜ、風疹にかかった子どもの写真を見せられた。
三番目の被験者群は、麻疹にかかった子どもについて痛ましい物語を読んだ。
四番目の被験者群は、アメリカ疾病対策センターが出した、ワクチンと自閉症の関係を否定する情報を見せられた。

結果は愕然とするものだった。
その情報を見た被験者群でも、ワクチン接種をすると答える人は増えなかったのだ。

むしろ情報が逆効果となるケースもあった。
病気の子供の写真を見せられた被験者は、ワクチンと自閉症に関係があるという確信を深めていた。
また痛ましい物語を読んだ被験者はワクチンには重大な副作用があるという確信をさらに深めていた。

これらが示すことは、科学に対する意識は、エビデンスに対する合理的的評価に基づくものではない。
このため客観的情報を提供しても意識は変わらない。
科学に対する意識を決定づけるのは、むしろさまざまな信念(社会的・文化的要因)であり、だからこそ変化しにくい。

なぜなら、信念とは個別に取り出したり捨てたりできるようなバラバラなかけらではなく、他の信念や共有された文化的価値観、アイデンティティなどと深くかかわり合っているからだ。
特定の信念を捨てるということは、他のさまざまな信念も一緒に捨てること、コミュニティと決別すること、信頼する者や愛する者に背くこと、要するに自らのアイデンティティを揺るがすことに等しい。

こうした視点に立てば、遺伝子組み換え技術やワクチン、進化論など少しばかり情報を提供したところで、人々の信念や意識がほとんど変わらないのも不思議ではない。

本章の教訓は、科学への理解や意識を大きく変えたいのであれば、その欠乏の背後要因を理解する必要がある、ということだ。
人々にとって、頭の中にある因果モデルと矛盾するような新たな情報は受け入れがたく、否定されやすい。
人々の誤った信念を正す第一歩は、自分やコミュニティの科学に対する認識が間違っている可能性に気づかせることだ。


『まとめ』

自分はほとんどのことに「無知」である。

なぜ無知なのに知識があると勘違いをするかを理解することで、私たちは日々直面するきわめて複雑な問題にもっとうまく対処できるようになる。
自らの理解の限界を認識すれば、もっと謙虚になり、他の人々のアイディアや考え方に素直に耳を傾けられるようになる。
人々の誤った信念を正す第一歩は、自分の認識が間違っている可能性に気づくことだ。


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