世界はここにある➈ 三佳篇㈡
2年前 欧州、ヒステンブルグ
立花三佳はヒステンブルグの3月の風の冷たさにスプリングコートの襟を立てた。ヒステンブルグの春は遅い。しかし街には青空市場がたち、春先の野菜や果実、肉や名物のソーセージなどが並び人が賑わう。昼間からワインや地ビールを片手に舌鼓を打つ人も多い。観光客も多いのか店主たちは「どこから来たんだい?」と声をかけながら自慢の一品を勧めてくる。三佳と堂山サツキも彼らの愛想のいい声かけに例外なく、都度、足を止めていた。
「三佳先輩、これ美味しかったね」
サツキがガーリックバケットを齧りながら言う。上にバケットの3倍はありそうなソーセージが乗っていたが、それは三佳とサツキが半分ずつ、すでに食べしまっている。その前にマッシュポテトも平らげていたし、厚切りのトマトのサンドイッチも一つずつ食べている。
「これだけでお腹いっぱいよ、私は」
「だけどパーティーは夜の10時からでしょ?まだ8時間はありますよ。お腹すきません?」
「あのね、パーティーはご飯食べるとこじゃないよ、日本じゃないんだから。ディナーはディナーでちゃんととるの」
「そっか、ついついどんな美味しいものでるのかと期待しちゃって」
サツキはそう言ってバケットを口に押し込む。大きめのバケットに苦戦する様子を見てこの娘はこんなに食いしん坊だったかと自然に笑ってしまう。
サツキは三佳が勤める出版社『文愁社』のデザイナー。今回このヒステンブルグで行われたテクノロジーシンポジウムの取材チームの一員だ。紙媒体のデザイニングだけではなくWebデザイン、写真の編集なども担当している。化粧はほぼしない。ボブショートにはこだわりがありそうだが、だからといってデザイナー気質のいで立ちとはお世辞にも言えない。
「私はファッション誌のデザイナーじゃないし」と黒レザーのパンツに平気で白無地のソックスとパンプスを履いたりする。バケットがまだ口の中で
もがもがしている様子と重なって三佳の笑みは続いた。
三佳はカメラマンだが大学では遺伝子工学を学んでいた異色の存在であった。遺伝子情報の映像化の研究の最中にその芸術性に感動し、そこから現実世界の映像を切り取る今の方向にハンドルを切った。周りからは変人、宝の持ち腐れと揶揄されたが、極小の世界を可視化することにより見た美しい世界の延長に彼女は現実世界を選んだ。専門とは真反対のベクトルに興味がいってしまったが、三佳はいつも「振り返っただけよ」と言う。今回のシンポジウムの取材チームに三佳が選ばれたのも、そのバックボーンが役に立つとの社の判断だった。
文愁社では前年から科学技術分野の情報発信の専門チームを立ち上げ、国内はもとより世界中の最先端テクノロジーを紹介、解説するWebチャンネルを創設。書籍とネットの両方で急激に読者を集めだしていた。撮影クルーとは別にカメラマンとデザイナーを連れて行くことを決めたのもそういった背景があった。
今回のシンポジウムの目玉は人工知能と医療、ロボット技術がテーマで世界の最先端を行く研究者、企業、そして各国政府関係者が招かれ3日間の技術紹介、意見交換が行われた。メディアも多くその注目度は高かった。世界を大混乱させた感染症の猛威は収束、アジアのごく一部で継続し起こっている流行り病の域に収まり、遠い欧州では昼食時の話題にものぼっていなかった。
三佳たちのチームはシンポジウムの取材のほかにもう一つ目玉となる仕事を持っていた。それはベラギー王国のシュナイター皇太子への独占インタビューだ。彼は皇太子であり、また、遺伝子工学、クローン技術の世界的研究者でもある。彼の研究中の技術は難病治療の突破口となる可能性が十分にあり、その内容は将来のノーベル賞を約束されているとも言われていた。
三佳はその際に彼へのインタビューの大役を任されてもいたのだ。ベラギー王国は小国ではあるものの科学技術の分野では世界トップレベルの技術者、科学者を王立アカデミーで抱えており、世界中にその権威を誇っていた。しかしその技術が密かに軍事転用されていたり、倫理的な検討を踏まない医療行為や開発に関わっているとの噂も一部では聞こえていた。今回のインタビューでは正面きってそんな話題はできないものの、チーム内では何か糸の端でも掴めないかと気負っていた。
☆
「しかし今回のコネクションはサツキのお手柄だそうね」
日本でのミーティングの席で三佳はサツキにそう訊ねた。
「そーでしょー?先輩、褒めてくださいよ。私、営業もできるんですよ」
「はいはい、それはよくわかったから。だけど、あんたがベラギー王国となんで結びつくのかは全然わからんのだけど」
三佳は得意がるサツキの鼻の頭をペンで突く動作をしながらそう言った。
「私ね、シュナイター博士…… 皇太子か?どっちでもいいけど、そのシュナイターさんの友人の息子の幼馴染なんですよ」
サツキは三佳のペンを奪おうとするが三佳はすっとかわした。
「それ、ほんとなら奇跡の人脈ね。友人って?」
「高山教授だよ、帝都大の」
チーフの宮根がサツキの答えを横から奪った。
「帝都大の高山先生ですか?私、卒論で先生の論文いくつか使いましたよ。再生医療では最重要の分野でしたから」
三佳は正直驚いた。その隙にサツキにペンを取られた。
「そう、その高山先生の息子は私の幼馴染で中学まで一緒だったんです。家も近所だし、その頃先生は京都の大学にいたはずで私も何回かお会いしたことあるんですよ。母同士が凄く仲良くて、高山くんの、あっ、息子さんのねサッカーの試合とかも何回か見に行ったこともありますよ」
「へ~、その息子さんとサツキは仲良かったのか」
自慢気なサツキの手にある自分のペンを取り戻そうとしながら三佳は
「付き合ってたの?」と追い打ちをかけた。
「いや~、お互い純粋で…… そこまでは……」
サツキの答えに三佳は、どの口がそんなことを言ったと手を伸ばしてサツキの頬をひねろうとした。
「まあ、何にせよ、堂山のお母さんラインから高山教授にアポが取れ、今回のシンポジウムの取材の流れでシュナイター皇太子…いや、今回は博士としてのインタビューが現実のものになったのは、間違いなく堂山の存在のおかげだよ。存在のな」宮根が最後を強調して言った。
「なんか引っ掛かる言いかたじゃないですか?」
サツキは少し口を尖らせた。
「でも、凄いじゃない。多分日本メディアは最初だよ、私らが。とにかく結論、サツキのお手柄ということで」
「もういいだろ、じゃ、日程の確認からいくぞ」
☆
「先輩、チーフから連絡ですよ」
サツキがスマホを手渡す。
「はい、立花」
「ああ宮根。今、青空市に居るんだって?」
「そうです」
「カメラ持ってるか?」
「ええ、ちょっと景色とか市場の風景とか資料用にと」
「丁度良かったよ。そこの市場からタクシー捕まえて、スランデントっていう森林公園へ向かってくれるか?」
「いいですけど、何ですか?」
「今、シュナイター皇太子と奥さんのサラ妃が息子のロイ王子を連れて釣りを楽しんでるらしい。お忍びらしいけど明日のインタビューのネタにもなるし、エージェントを通じてOKももらってるから。写真を何枚か撮ってくれ。写真だけだぞ許可はな。中身はあとで確認してもらう手筈になってる。
エージェントと警察の関係者が案内してくれるから頼む」
「チーフはこないの?」
「俺はシンポの原稿送るので時間ないんだよ」
「わかりました。じゃ、行ってきます」
「サツキ、今から写真撮りに行くよ」
「誰の?」
「あんたの初恋の彼のお父さんの友達のご家族のよ」
「うほー、あれは初恋だったか…」
三佳とサツキは市場を抜けてタクシーが乗れる場所を現地の人に訪ねながら探しタクシーを捕まえることができた。
「スランデント森林公園へ」と運転手に告げるとタクシーは大通りの中央をいささか強引に方向転換をし目的地へ走り始めた。
想像すらしない二人の運命を大きく変えるその場所へ。
★この作品はフィクションであり登場する人物、団体、国家は実在のものと 一切関係がありません。
エンディング曲
Middle of the Road (2007 Remaster)
The Pretenders
世界はここにある①
世界はここにある②
世界はここにある③
世界はここにある④
世界はここにある⑤
世界はここにある⑥
世界はここにある⑦
世界はここにある⑧