見出し画像

本の話|走ることは僕にとって有効なメタファーである

元日に新しいランニングシューズを買った。二ヶ月ほど前から休日になると走っている。正確に言うと、割と真面目に走ることを再び始めた。きっかけは単純に体重を落としたかったから。ある日の朝、スーツのパンツに両足を通したあと、ベルトを締めようとしたら、従来の穴の位置ではお腹周りが少しキツいなと、ふと感じた。ここでベルトの穴の位置をひとつ緩めればいいとの発想になかなかなれないのは、若い頃からの癖のようなもの。やはりこれはマズいと思ってしまう。

走ることを日課にしていたのは確か十年くらい前まで。日々の走る時間を少しずつ延ばし、いくつかの短い距離のロードレースに参加したあと、いよいよ次の目標はハーフマラソン!と意気込んでいた矢先に足首を傷めた。タイミング悪く、同じ時期に内臓の急性疾患による入院。ほどなくして身体は治癒したが、走りへのモチベーションはすっかり萎んでしまった。

それからは、走りたいという気持ちが沸々と湧き上がってきたところでおもむろにシューズを履いて街に出る。時間帯は特に決めない。しかも、走るのは週末だけ。それ以上走れないわけでもなければ、走りたくないわけでもない。むしろ、もっと走っていたい。だけど、相応の対価を支払う覚悟のない僕に、身体はそれを許してくれないだろう。何事においても、年齢を重ねてからのやり過ぎは毒にこそなれ薬にはならないというのが僕の持論だ。体力に物を言わせて脚を前へと蹴り出しさえすれば遠くまで行けた頃は過ぎた。今は、手にしているものだけでやっていけばいいと、走りながら自分に言い聞かせている。

* * *

僕にとって「走る」とは、落ち着いた色合いのコーディネートにアクセントカラーとして添えたポケットチーフのようなもの。日常におけるメインアイテムではない。だから、自分のことを「ランナー」という属性にカテゴライズするのは、とても気が引ける。年始に、村上春樹氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでその想いを強くした。なにしろ僕は村上氏のようにまじめには走っていないのだから。なお、同氏の言う「まじめに走る」を具体的な数字で示せば、一日に10キロの距離を週六日のペースで走り続けることになる。ご自身は、たいしたランナーではないと謙遜されているが、僕にしてみれば殿上人のような存在だ。

ただ、この本の中で語られる歳を重ねたランナーとしての心情は大いに共感するところである。本書の初出は約15年前だが、たぶんその頃に読んでも今ほどの感慨はなかった。その理由は、本文にある「走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった」との言葉がすべてを表わしている。確かに、若くても走ることから想起する自分自身へと繋がる寓話はあるとは思う。だが、人生における分水嶺を過ぎたランナーほど、この言葉の重みをより実感し、より深く心に沁みこませることになるはずだ。若い頃には想像もつかなかった景色の中で立ち止まり、あの頃と何も変わらぬ空を見上げながら、そんなことを想う。




この記事が参加している募集

推薦図書

ランニング記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?