『笑い』について哲学的で小難しいことをざっくり語る
「笑い」を引き起こす「おかしさ」はどこから生まれるのだろうか。
アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)というフランスの哲学者がおりました。1927年にノーベル文学賞も受賞。そんなベルクソンの著書に『笑い』と題されたものがある。タイトル通り、笑いがどのようにして起こるのかを解き明かす本。
大学の卒業論文を書く際にこれを参考にしました。
笑いが起こる仕組み自体は単純なのに、それを説明する内容がかなり難しい。あれほど根気のいる読書ははじめて。一度獲得した知識なのに間が空くと抜け落ちてしまいそうで、今回はアウトプットすることで自分にとっての覚え書きにしたい。
(働きはじめてから労働のことばっかり考えてて頭が腐りそうだから老化とノイローゼ防止の効果も期待したい)
そんな具合で、ベルクソン哲学の『笑い』をできる限り簡単に、そして根気がいらない程度にざっくりと紹介したい。
動きのおかしさ(機械的硬直性)
見知らぬ若い男がスマホを見ながら歩いている。男は前方の電柱に気付かず突撃し、3〜4m後方へ弾き飛ばされた。それを偶然見ていた人が笑う。
見知らぬ男は電柱に対して、本来なら避けるか止まるかするべきだったのに、機械的に一方向へと歩き続けてしまった。
ベルクソンは態度や動きにおける[おかしさ]には、機械的な硬直性があるとしている。
スケボーの失敗動画を例にしてみよう。
スケボーで失敗する外国人の動画がYouTube内で無数に存在するのは、それが一種のエンタメとして消費されているから。
そのおかしさには、柔軟性を欠いた結果の硬直性がみられる。
また、失敗の派手さや奇想天外性といった「驚き」の要素があり、同時にその人物に感情を動かされない(同情の余地がない)ことが[おかしさ]の材料となる。
ウケるスケボー失敗動画を作る際にはぜひとも覚えておきたい。
このように、ベルクソンは笑いやおかしさが生まれる仕組みや条件に迫り、それを明らかにしてみせた。そして[おかしさ]には「滑稽」なものだけでなく、「機知」(ウィット)に富む[おかしさ]も存在することを示したのであった----
言葉のおかしさ(笑いの手法)
言語表現でも[おかしさ]を生むことはもちろん可能で、言葉や状況における笑いの手法をベルクソンは大きく三つにして示した。
「繰り返し」「ひっくり返し」「系列間の相互交渉」だ。
順番にざっくり紹介してみる。
①繰り返し
繰り返しとは、一つの状況がパターン化され何度も起こること。
たとえば、こんな会話にも繰り返しが用いられている。
A「寿司といっても巻き寿司、ちらし寿司、押し寿司、くら寿司いろいろあるけどさ」
B「寿司にチェーン店混入してるやん」
A「何寿司が好き?はま寿司?」
B「いやチェーン店なんよ」
A「っていう内容を10人以上に転送せな呪われるってメールが鎖と一緒に届いてな」
B「チェーンメールチェーン付きやん。長めの財布につけて腰から垂らしとこ」
「チェーン」という言葉を会話の中で複数回用いる繰り返しであり、その中で「チェーン店→チェーン(メール)→鎖」という連鎖が起こっている。繰り返しは、お笑い用語で「テンドン」と呼ばれる手法にも当てはまる。
ちなみにさっきの文章のここも狙って「鎖(チェーン)」を使ったので、繰り返しの一部になる。
このささやかでしたたかな狙いが伝わっているかは別として。
②ひっくり返し
ひっくり返しとは、人物の役割が逆転もしくは入れ替わるようなこと。
たとえば、こんなシチュエーションはどうだろう。
『飼い主を散歩させている犬』
『空き巣に入られた空き巣』
『親を論破する赤ちゃん』
『知的おでん型生命体にツンツンされるおでんツンツン男』
『史上最悪の女癖の浮気男、1000股をかけるもそれは変装した嫁(伝説的くノ一)の多重影分身で人生詰んだんですが!?』
最後はつまんねえライトノベルの題名みたいになってしまったが、ひっくり返しとはまさしくこういう感じのことである。
力関係が逆になったり、やられ役がのし上がったり。ある意味、『半沢直樹』も下克上ストーリーなのでそうかも。
ひっくり返しを用いた題材、風刺的になりがち。
③系列間の相互交渉
系列間の相互交渉とは、ベルクソンいわく「ひとつの情況は、それが絶対的に無関係な二つの系列の出来事に同時に属しており、かつ同時にまったく異なる二つの意味で解釈することができる」ものだそう。
なるほど。
わからん。
ここは説明するのも理解するのもめちゃ難しい。
言葉における相互交渉には、ダジャレや語呂合わせが含まれる。
けど、ベルクソンは「ダジャレとか語呂合わせは低レベル」だとした。そうした上で、「同じ音を持つ、異なった意味の言葉による言葉遊び」を上手に使えば評価できる洒落になるとした。
【同音異義】
・全治前納の紙
(ちゃんと治すには前金で払わないと治療してくれない病院の同意書)
・全知全能の神
(なんでも知ってる神さま)
すなわち、同音異義語や二義(ダブルミーニング)的表現はその使い方にテクニックがともなえば「めちゃオモロ」だと。
系列間の相互交渉の特殊タイプとして「取り違え」(二人以上の人物が同じ事柄について異なった理解をしていること)がある。
たとえば、こんな具合の状況。
取り違えは基本的にアンジャッシュのコントになる。
移調と比喩の直接的解釈
そのほかにも[おかしさ]を発生させる表現や手法はベルクソンが事細かく論じている。
それらすべてをざっくり挙げるだけでも骨が折れるので、最後に「移調」と「比喩を直接的な意味として理解する」の二つを紹介しておしまいにする。
移調とは、あるものを別の調子に置き換える手法のこと。
たとえば、友達とのLINEで取引先とするような言葉遣いを持ち込む、カフェで話すことを「戦略会議」と呼んだり、デートのことを「会合」と呼ぶ(日常会話に改まった言葉遣いを移調する)のは滑稽だと。
また、真面目な作品をくだけた感じにして表現する「パロディ」も移調の一種となる。
比喩を直接的な意味として理解すること、これは文字通りの意味。
たとえば、こういうこと。
例え話を本気で信じたり、例えツッコミを真に受けてみたり、「君の瞳に乾杯」といって本当に相手の眼球にグラスをぶつけたりすることも有効である。
「笑い」とは何か、それを引き起こす「おかしさ」はどこからどのようにして生まれるのか。考えてみると単純なようで複雑な世界。
お笑いを説明するという極めて危険(興覚め)な部分に足を踏み入れることにもなりかねないのですが、そのメカニズムを考えてみることで新たなオモシロ視点を得られるのかもしれません。
お話を書いたり、創作する際にベルクソン哲学の『笑い』の手法を応用させてみてはいかがでしょうか。
という締め方。
おしまい。