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ノイズキャンセラー 第三章

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 第三章

 新山和哉にいやま かずやは、待ち合わせをしていた。相手は里村さとむらという男だ。
 銀行員をしていたころ訪問先で「銀行は時間ちょうどに来ますね。証券会社は早めに来て、保険会社は遅れてくる」と、言われたことがあった。保険会社に転職してからは、余計に早めを心掛けていた。待ち合わせの場合は、相手が十分前に来ることを想定してそれよりもはやくから待つ。
 待ち合わせ場所に新山が到着してから、かれこれ三十分ほど経つ。すでに、約束の時間も過ぎていた。すっぽかされたかと思い始めたころ、こちらへ向かってくる男をみつけた。里村とは初めて会うので顔を知らなかったが、声をかけられる前にわかった。
 里村はやけに太っている。まず、『体況たいきょう』は大丈夫だろうかと考えた。あまり身なりに気を遣わないタイプらしく、首元の少し伸びたトレーナーを着ている。十一月に入り上着が必要な気温にもかかわらず、持ってもいない。
 それにしても、内臓脂肪の多そうな腹の出方だ。年齢は三十五歳だったはずだ。新山より五つ年上なだけで、やけに老けている。
 話をする前から、駄目だと感じた。
 紹介で来てもらった手前、帰ってくれとは言えない。紹介者の松木は、卒業以来ほとんど交流のなかった高校の同級生だった。松木は明るく人懐っこい性格なので、気軽に職場の先輩を紹介してくれたのだ。紹介を貰えたことは、ありがたかった。しかし、もう少し人を選んで欲しかった。
「里村様ですね?」
 目の前に立つ男に声をかけた。
「えっと、保険の方ですよね?」
「新山と申します。本日はお忙しいなか貴重なお時間をいただきます。お越しいただきありがとうございます」
「いやいや、こちらこそよろしくお願いします」
 里村が「道に迷ってしまって」と、何度も頭を下げた。近くのショッピングセンターに自転車をとめた後に、一度違う方角へ随分歩いてしまったらしい。新山は内心呆れながら、「お気になさらず」と、愛想笑いを返した。
 喫茶セントラルは、東舞鶴駅の近くにある。落ち着いた雰囲気で、客席同士が結構離れていることもあり、商談によく使っていた。今は十四時をまわり、店内にいる客も少ない。
 初回は特に雑談がメインなので、店内が薄暗いことは問題なかった。実際の商談は二回目からだ。その際には、相手の自宅か、事務所で会うことになる。
 新山は、里村とは今日が最後になりそうだと、予感していた。
 無理に契約にこぎつけても、告知や診査の結果で契約が成立しない可能性が高い。次を探す方が賢明だ。
 新山は、自分のこうやってすぐに見切りをつける性格が、生命保険の営業に向いていないのだと自己分析している。銀行の営業は楽ではなかった。それでも、保険会社に比べれば随分ましに思える。結局、向き不向きの問題だと理解していた。
 銀行員時代に担当していた会社で、外資系保険会社の営業マンとバッティングした。社長を待つ間、名刺交換を求められた。それが今の上司、牧野との出会いだった。牧野から、一度だけ保険の話をきいて欲しいと頼まれ、断り切れずに個人の電話番号を教えた。後日、熱心に営業をかけられ、終身保険に加入することになった。契約後に、営業のために努力をするのであれば、保険会社の方が報われると転職をすすめられた。
 牧野の話は魅力的だった。成果があれば、そのコミッションがダイレクトに収入に反映される。銀行では、支店の目標の達成のために、じぶんの目標をこえてでも、成果を求められた。人事評価上は、プラスに働く。だからといって出世できるのは先の話だ。達成できなかった同年代の同僚と、給料にほとんど差はなかった。
 新山は転職を後悔していなかった。保険会社には銀行にはない自由がある。
 最初の二年間は補償給制度がある。ひどい成績でなければ、銀行員時代と同じくらいは貰えた。ただ、そのうち完全な歩合に移行することに不安を感じていた。
 転職を決めたときに牧野から言われた。
「保険営業で成功するために必要なのは『覚悟』だけ」
 覚悟はあるとその時は思った。しかし、実際に従事すると自分にはまだ覚悟がないと思い知らされた。だから、一年経っても成功していない。
 牧野の話だけを聞いていたころは、保険の仕事が純粋に人のためになると信じられた。入社して数か月も経てば、そんなものは幻想だと気づく。
 会社名を出すだけで渋い顔をされる。 
 保険営業の成功者は、二種類にわけられる。人のためになっていると純粋に信じ込めるタイプと、金のためならなんでもできるタイプだ。
 新山はどちらにもなれそうになかった。
 相手の閉ざされた心をこじ開けなければ、保険の話を聞いてはもらえない。それには、ある程度の強引さ、しつこさが必要だった。どうしても、プライドが邪魔をする。プライドを捨て去ることが、覚悟をきめるということなのかもしれない。
 里村と店に入った。奥の方のテーブルを取ってもらっていた。
 席について「どうぞ」と、メニューを渡す。
「なんでもいいんですか?」
 新山は、ここは一番安いブレンドコーヒーを頼むのが常識だろうと思う。
「お好きなのを選んでください」
 心とは裏腹に、新山は笑顔でそう言った。
 里村の表情があかるくなる。メニューを捲って、軽食の欄をみはじめた。
 飲み物代の負担で済ませられるよう食事時を避けているのに、里村は食べる気でいるらしい。 
 契約に結びつきそうもない相手の食事代を負担させられるのは、災難でしかない。
 だからと言って「食事はやめませんか?」とは、言い出せない。新山は目を細めて作り笑いを維持した。
「こういう喫茶店って、きっとナポリタンが美味いですよね」
 里村の言う「こういう」がまずこの店のどの部分を指しているのかがわからない。おまけに新山はナポリタンスパゲティがあまり好きではない。
「そうかもしれませんね」
 新山は、首を傾げて見せた。
「それじゃあ、やっぱりナポリタンで」
 店員を呼んで注文した。新山はホットコーヒーを頼んだ。
「僕はアイスコーヒーで」
 飲み物まで頼まれるとは思わなかった。保険会社に入って、この手の「卑しい」人物によく出会う。自分自身が必死で頼み込んで会ってもらうから、足元を見られるのだ。
 飲み物は食事の前に持ってきてもらうことになった。
「松木さんから聞きました。経費になるんですってね。いいなあ」
 里村が羨ましそうに言う。
 保険会社の営業職員は、個人事業主のようなものだ。新山程度の収入であれば、単なる出費でしかない。契約に結びつくのであれば、惜しくはない。
「年齢的に、そろそろ保険に入った方がいいかと思ってて、松木君に声をかけてもらえてちょうど良かったんですよ」
 保険には、健康不安を抱えていれば入りたくなるが、健康なうちは必要性を全く感じない。
 素人が「そろそろ」と感じるころには、基本的には保険料が高くなっている。健康状態によってはさらに割増の保険料の負担が必要となり、最悪の場合は保険会社から『謝絶しゃぜつ』を食らい、その後の無保険がほぼ確定する。
 中には、危険度の高い人だけが加入する商品もある。しかし、最初から保険料がかなり割高だ。
 新山は独身だったが、銀行に入行した直後にすすめられるがまま、いくつかの保険に加入していた。牧野に見直しが必要か相談したときには「若いうちに入った保険の方が保険料が安いのでそのまま持っといてください。足りない部分を追加する程度で十分です」と言われた。
 牧野のような仕事がしたいと新山は確かに感じた。
 現実は甘くない。それだけのことだった。
 里村と過ごす時間はせいぜい一時間ほどだ。若くて健康な知り合いを紹介してもらうことをゴールに据えた。
 飲み物はすぐに運ばれてくるだろう。かるく雑談をしておく。
「里村様、本日はお越しいただき本当にありがとうございます。松木君から、面白い方だときいていたので、お会いするのを楽しみにしておりました」
「松木さんそんなこと言ってました?」
 里村の表情が曇った。
 マニュアルでは、ここで客は喜ぶことになっている。
「漫画に非常に詳しくて、話題豊富と聞きました。コレクションが趣味で、貴重なものをたくさん持ってらっしゃるんですね?」
「松木君が知っているとは、思いませんでした」
 松木が知らなければ、初対面の自分が知るはずがない。先ほどから、里村の反応がどこか不自然だ。気になりはしたが、松木と里村の関係性をこれ以上掘り下げる必要もない。
「他にも、里村さんは仕事が丁寧だと言っていましたよ」
 今度ははにかんだ。
「少し、丁寧すぎるのかと悩むことがあって」
 察するに、里村は仕事が遅いのだろう。
「松木さんとはあまり話したことがなかったのに、やはりあの人は周りをよく見ているんですね」
 新山は、松木の事もそれほど知りはしない。曖昧に微笑んでやり過ごす。
 松木はあまり親しくもない人物を紹介してきたらしい。松木にとって、新山との面談が有意義ではなかったことを物語っていた。確かに、わだかまりの残るものになってしまった。
 松木と久しぶりに会ったのはちょうど一週間前だ。
 共通の友人田中もふまえて飲みに行った。お互い、直接の関わりでの思い出はないが、同級生や恩師の話で盛り上がった。
 松木はちょうど一年前に今の職場に転職をしたらしい。職種は電子機器メーカーのカスタマーサポートだった。前職はバーテンダーだった。
「ちょっと固い仕事に就こうかと思い立って」
 松木はそう言って笑った。屈託ないという単語がよく似合う笑顔だ。
 夜の仕事から離れたくなった理由については、聞いていない。しかし、松木ほどの好感度のある容姿なら、対面での接客業のほうが向いていそうだと、新山は疑問に感じた。
 その疑問については、話しているうちに解消できた。
「仕事とプライベートが完全に切り離せるところがいいんだ」
 確かに、出かけた先でばったり顧客と鉢合わせる心配が全くない。会ったとしてもお互いに気づくことはない。
 保険会社に転職してつくづく感じるのは、仕事とプライベートの境界線がないことだった。友人に会うのも『見込み客発見』のためという位置づけになる。
 保険会社に就職すると友達がいなくなるというのはそのせいだ。食事に誘うのにも後ろめたさが伴う。物事を自分の都合の良いようにとらえられる性格のほうが、保険会社には向いている。
 牧野がリーダーを務める班の中で、好成績をキープしている井口は「保険の話をしようと思わなければ、会うことなんてなかった相手でも、話してみると面白いし、視野が広がる」と、よく口にする。
 新山は、そこまで前向きにはなれていない。
 そのうち、声をかけられたら保険をすすめられるから会うのはやめておけと、うわさが回るのではないかと心配しているくらいだ。
 一度、井口にそのことを漏らしたことがある。
「もう何年も連絡をとってない相手が結構いるだろう。そこからあたればいい。そんな相手なら、ブロックされようが痛くもかゆくもない。それに友達が減ったら、また別の友達を作ればいいよ」
 心からそう考えられる者だけが生き残れる業界なのかもしれない。
 ほぼ十年ぶりに松木に会い、井口の言っていることが少し実感できた。松木は水商売をしていたからか、話しが面白い。楽しいひと時を壊したくなくて保険の「ほ」の字も口に出せずにいると、松木の方から「仕事の話をしなくていいの?」と聞いてきてくれた。
 松木には結婚を考えている女性がいるらしく、保険にはそれなりに興味を抱いていた。
 松木と契約に至らなかったのは、投薬の履歴があったからだ。
 後日、設計書と契約書を用意して松木の家を訪問した。あらかじめ、負担できそうな保険料は聞いていたので、掛け捨ての定期保険と終身保険、医療保険を組み合わせた。告知書の記入段階で、長年睡眠薬を処方されていることがわかった。
 明るい松木が、メンタルクリニックの世話になっているとは想像もしていなかった。若いから健康だと思い込んでしまった。
 保険の契約をしてもらうにはニード喚起が重要だ。
 顧客に、潜在的な必要性を気づかせて、その気にさせる。その気にさせた後に既往歴を知って、身勝手に落胆をする。
 必要性を感じた後に入れないと言われた本人の方がよほどショックなはずだ。
 薬を飲まずには眠れない相手の悩みや苦しみなど、思いやる余裕はなかった。
 また、契約に結びつかなかった。
 所詮、他人の悩みは他人の物でしかない。
 銀行員というキャリアを捨て移ってきたこの場所で成功できないことがあってはならない。新山にとってはそのことが何よりも重要だった。
 新山は銀行員時代にも保険を提案することがあった。しかし、ほとんどが一時払の個人年金保険だった。
 当時、融資先には販売してよい保険の種類に限定があったのだ。松木は法人部にいたので、死亡保障を売るようになったのは、保険会社に来てからだ。
 保険の相互扶助という考え方は素晴らしいものだ。
 新山も転職を決断する前、会社説明会で感銘をうけた。事実かは知らないがいつかの大戦でのエピソードが紹介された。
 二つの国の捕虜の比較だった。
 捕虜たちは労働をした日には一つだけパンを貰えた。そうなると、体調を崩し労働しなかった日はパンを貰えない。当然、体調が悪い上に食料も与えられない捕虜はどんどん弱って死んでいく。
 二つの国の間で、死者の数に差が出始めた。死者の少ない国の捕虜たちは、毎日支給されるパンを皆、ひとかけずつ壺に貯めていた。その備蓄を体調を崩した者に与えていたのだという。体を休め食料も得れば、そのうち回復してまた労働に戻る。
 そして、パンを支給されれば、次に体調を崩してしまうかもしれない仲間のためにパンを提供し始める。
 それこそが相互扶助の源、保険の仕組みの考え方なのだ。
 生命保険の場合、大黒柱に万が一の事態が起こった際に、遺された家族には負担していた掛け金に応じた保険金がおりる。
 実際、自らすすんで自分に死亡保険をかける場合、大切な家族にまとまったお金を遺したいという理由がほとんどだ。自分の命がお金に変換されると毛嫌いする人もいるが、保険加入はきれいごとでもなんでもなく、家族への愛情の証なのだ。
 保険金で借金を返す目的など、自死の免責期間があるから現実ではうまくいかない。
 保険金殺人も簡単ではない。受取人が保険金目的で殺人を犯せば、支払われない。保険会社間で、個人に過剰な加入がないかなど情報を共有しあっている。保険金の詐取はそう簡単ではないのだ。
 保険という商品は素晴らしいものだと、新山は心から思っている。それなのに保険の募集人は嫌われている。それは、商品内容ではなく、日本国内でかつて横行していた勧誘方法に問題があったからだ。会社に入りたてで、十年後の自分がどなっているかなど、よくわかっていない若者に、払える程度の更新型定期保険に加入させる。
「十年ごとに保険料は更新され上がっては行きますが、その頃には給料も上がっているので問題なく払えます。もし、負担に感じたら、保険金額を下げることで調整もできますよ」
 こう、説明しているのなら、まだ親切な方だ。社員食堂にしつこく通って、「保険は入っていた方がいい」と言い続け、自分の成績に有利な特約を沢山付けた保険に加入させる募集人が少なからずいたらしい。
 入社時の研修で、昔ながらのイメージを変えることが我々の使命だと教育を受けた。ライフプランニングと合わせて保険を設計提案する手法を叩き込まれた。
 保険会社に所属していても、生命保険募集人の一般試験に合格し登録されるまで、一切の勧誘はできない。一般試験自体は、勉強にひと月かけるほども難しくない。その間に、商品の内容を覚え、ニード喚起の手法を習得する。
 スクリプトをみながら、ロープレを繰り返す。いろいろなパターンに合わせたスクリプトが用意されていた。
 それに、研修で力を入れていたのは、自己紹介の際の転職理由だった。新山の勤めている保険会社は職員がスカウトして中途採用するのがほとんどだった。前職からわざわざ保険会社へ移った理由を熱く語ることで、多くの人が持っているイメージを変えるのが目的だ。
 新山はありのままの転職理由でトレーナーからOKをもらえた。
 同じエリアに新山の同期は二人いた。一人は、賃貸住宅の営業だった時田ときだ、もう一人は美容部員だった内藤だ。
 二人の転職理由はトレーナーから随分脚色された。採用面接の志望動機も、三割増しくらいで語られるものだ。前職を偽っているわけではなく、問題はない。
 二人とも接客には慣れているが金融の知識はほぼない状態だった。
 研修時から二人からはよく質問を受けた。新山にとって常識でしかないことを、二人はほとんど知らなかった。
 二人とも銀行では出会えないタイプだった。
 研修が始まってすぐに新山は転職する先を間違ってしまったのではないかと感じた。
 新山を誘ってくれた牧野は一目で優秀なのがわかったので、新規採用する人材がこの程度だとは想像もしていなかった。
 特に時田はかなりいい加減な性格をしていた。その上無駄話が多かった。くだらない話をする時間で、時田にはいくらでも覚えるべきことが存在していた。
 最初の一般試験の模擬テストで、半分も点数を取れなかったが、危機感もなさそうにしていた。
 時田は人懐っこくもあり、新山に対してもいろいろな誘いをしてきた。毎回断っていたが一度だけ、自己啓発セミナーにつきあった。
 毎日を前向きに過ごすことで人生の効率を上げていくという類のものだった。脳が本人の思い込みに支配されている仕組みを利用し、自分をコントロールするのだ。
 講師の話はとても面白く、九十分があっという間に過ぎた。新山は、メンタルを健康に保つ方法を広める活動は、社会にも貢献していると感じた。
 自分のような、ネガティブ思考に陥りがちなタイプには特に有効である。新山が以前読んだ本に、ネガティブ思考の人は、常にネガティブなことを考えるため、その思考にかかわる脳の血管が太くなっていると書いてあった。太い血管には血液が流れやすくネガティブ思考にすぐ走ってしまう。そのため、ネガティブなことを考え始めた時に、無理にでも楽しいことを思い浮かべるようにすると、楽しいことにかかわる血管が太くなっていく。そうやってくうちに、思考のパターン自体を変えていけるというものだった。読んだ時には、なるほどと思ったが、実行はできていなかった。自己肯定感をあげる努力には価値がありそうだ。
 ただ、セミナーに誘ってくれた時田にとっては、毒にしかなっていない。
 自分に甘いタイプに、『もっと自分を甘やかしていい。自分を積極的に肯定してあげることで心が健康を取り戻す。』などと説けば、さらに堕落していく。

 入社から一年経過し、新山のネガティブ思考は変わっていない。無理に明るく考えても現実が変わるわけではないからだ。新山は、現状を打開すること以外に、ポジティブになれる方法はないと悟った。同期の二人の現状はというと、時田はセミナー講師になりたいと退職し、内藤は新山よりも成績が良い。
 内藤は大きな事業所を開拓して、そこで定期的に成果をあげていた。今も、彼女の知識はそれほど増えていなかった。販売に必要な試験は合格できたが、社会保障に関することなども大まかにしか押さえていなかった。
 内藤は美容部員だっただけあって、容姿が良かった。
 同期入社ではあっても配属された班は違う。それでも時々内藤に食事に誘われ、いろいろと相談をされた。
 新山は、自分より上手くいっている内藤に対し劣等感を抱きながら、声をかけられればつい時間を作ってしまう。
 内藤が成果をあげている理由はそこにある。
 新山は、休憩室で内藤に対する陰口を耳にしたことがあった。同調を求められたが、曖昧に笑ってその場を後にした。
 長年営業所にいる女性が、内藤の自衛隊基地への出入り許可が出されるのを阻止しているという噂を耳にした。自衛隊基地は、営業所が抱える職域の中で一番優良だった。内藤が担当者の一人になれれば、もっと水をあけられてしまう。
 甘え上手も武器になるのが営業の世界だ。保険は高い買い物だ。可愛いだけで次々売れるものでもない。しかし、新山のいる保険会社は商品が良いから、話を聞く気になってもらえれば、一定数には気に入ってもらえる。数多く声をかけることが、重要なのはわかっていた。
 新山は、人に声をかけることをどうしても躊躇ってしまう。研修所を出て営業所に配属になってすぐの体験が尾を引いているせいだった。
 募集人の資格を得てから最初はベースマーケットと呼ばれる知人友人を周る。
 新山は、偶然を装い銀行員時代に担当していた寺へ顔を出した。直近のところではなく、以前の支店での担当先だった。
 街中に点在する小さな寺の一つだ。
 境内に入ると本堂の近くで夫人が掃除をしていた。すぐに新山に気づき挨拶をしてもらえた。数年ぶりの訪問にもかかわらず温かく迎え入れられ、新山は期待を抱いた。
「生憎、御主さんは今、外出してはります」
 住職は不在だったが夫人は、新山を懐かしんでくれ、応接室で話をすることができた。
夫人は新山の転職を驚いてはいたが、研修中に何度も練習した転職理由を語ると「信念をもってはる」と、感心された。
 夫人と雑談をしながら、家族の近況を聞き出していく。
 住職には二人の息子がいる。
 長男は、跡を継ぐ予定だが、現在は別の寺で修業をしている。次男は、同じ宗派の跡継ぎのいない寺を継ぐのが決まっているという。銀行で担当していたころは、資産運用の提案が主だったので、家族構成はあまり訊けていなかった。
 新山はどのアプローチで保険を提案するか考えを巡らせながら、自然に情報を収集した。
 次男の方はもうすぐ子供が生まれるらしい。チャンスだと感じた。
 新山は保険会社でいろいろな知識を得た今なら、最適な提案ができると力説した。
 夫人から「ぜひ、息子のところへ行って話をしてほしい」と、次男夫婦の生年月日などを教えてもらえた。
 新山はまだ会ったことのない住職の次男の将来を思っていろいろなプランを考えた。
 住職に万が一のことが起こったあと、家族は寺には住み続けられない。もうすぐ生まれる子供が無事成長するまでの間に必要な資金を算出し、死亡保障を提案するつもりでいた。
完璧だと感じるプランができ、保険会社で成功できると新山は確信を持った。
 そんな喜びは続かなかった。
 訪問してすぐに、空気がおかしいことに気づいた。
 応接間に通されたものの、そこからは苦情を言い続けられた。
 次男は、両親が銀行のすすめで資産を運用していることも快く思っていなかった。自分のところにまで保険を押し売りに来たと、罵られた。
 最後には、自分のところはもちろんのこと、両親の寺にも二度と顔を出すなと念押しされた。
 新山はそれきり、銀行員時代の担当先には手をだしていない。
 温和な両親の息子が温和だとは限らない。銀行にまで苦情がいきかねない事態だった。
 寺以外の担当先は中小企業がほとんどだった。銀行に義理立てするに違いないと決めつけた。
 新山は、期待することができなくなった。気軽にも声をかけられない。
 かかわりのなかった企業に飛び込みをした方が楽だと思った。しかし、新山の勤める保険会社は飛び込み営業を良しとしなかった。知人の紹介で広げていくのが方針なのだ。
 現在は、なんとか、学生時代の知り合いから契約をもらいながら、続けている状態だった。
 友人の田中から松木に、その後、松木の同僚の里村につながった線はここで途切れる。
 また、誰かを誘わなければ。
 ナポリタンスパゲッティを食べる里村に対し作り笑いを浮かべながら、新山の心は暗く沈んでいた。

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