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日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(3/5)

渋沢栄一は日本人の海外発展にも尽力、とりわけアメリカと良好な関係を築くことに力を注いだ。

中央の人物が渋沢栄一、「バロン渋沢」として紹介されている。1915年のニューヨークで撮影。(ウィキペディアから引用)

しかしながら当時のアメリカは「黄禍論おうかろん」、即ち日本人を含む黄色人種に対する差別が旋風を巻き起こしていた。最近ではアメリカでアジア人に対するヘイトクライムがニュースになったが、当時はそういう暴行や迫害を「クライム」、即ち「犯罪」とさえ見做さない場合もあった。


明治42年(1909年)、渋沢は渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)ニューヨーク日本協会協賛会創立、名誉委員長を引受ける。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる日本移民排斥運動等に対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。日本を植民地とするロイターの障壁の前に実現は見なかったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社、共同通信社の起源となった。

大正4年(1915年)パナマ太平洋博覧会のため渡米し、各地を歴訪。トマス・ウッドロー・ウィルソン大統領と会見。大正5年(1916年)日米関係委員会発足、常務委員就任。大正6年(1917年)日米協会創立、名誉副会長就任。大正9年(1920年)国際連盟協会創立、会長就任。大正10年(1921年)ワシントン軍縮会議出席のため訪米、ウォレン・ガメイリアル・ハーディング大統領と会見。


渋沢が米国における邦人の境遇を熟知しており、かつ憂慮していたことがわかる。

小林美登利もブラジルに渡る前にはハワイ、そして米国に住んでいたので身を以って北米における邦人の苦しさを経験していた。そしてブラジルの邦人も同じ轍を踏まぬようにと考えて辿り着いた答えが、ブラジルの日本人子弟の教育を以ってブラジル社会に優れた人物を送り出すことによってブラジル人と融和とはかり、現地の人との摩擦を減らし、ブラジル社会に貢献する人材を輩出しようとした。

それまでは日本からブラジルへ渡った日本人は永住する考えは基本的になく、数年働いて故郷に錦旗を飾るつもりであったので、ブラジル社会との融和とは当時としては大変進歩的な考えであった。そしてそれを具現化したのが「聖州義塾」であった。

もし小林が単なる一教師であり、そして「聖州義塾」が異国の地で邦人の子弟教育を目指す一学校に過ぎなかったら、恐らく渋沢は見向きもしなかったであろう。当時のブラジルには大正3~4年(1914~1915年)に宮崎信造しんぞうがサンパウロ市で「大正小学校」を開校したのを皮切りに、すでに数校が存在していた。


しかしこういう特殊な背景が渋沢を動かした。小林美登利と聖州義塾についてはこれから少しずつ紹介していきたいが、渋沢がブラジルにも邦人への迫害が広まらないためにと、ブラジルにおける小林の活躍にその可能性を見出した。


(2022年1月9日投稿、毎週日曜日更新予定)

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