日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(2/5)
昭和4年(1929年)6月9日、午前9時。渋沢栄一の自邸であった飛鳥山邸に案内された人物がいた。
小林美登利。福島県会津出身の人物で、会津中学校(現会津高校)を卒業したのちに京都の同志社大学神学部を首席で卒業した気宇壮大の男で、ハワイとアメリカを経て当時は地球の反対側、遠い国のブラジルで教育者及び宗教家として多方面で活躍していた。余談だが同志社大学と会津は明治時代から縁があり、数年前に放送されたNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公として描かれ、「会津の巴御前」とも称された新島八重は同志社創立者の新島襄の妻に当たる。
小林と渋沢はこれまで面識が全くなく、渋沢の名声は当然小林の耳にも入っていたが、逆に渋沢は小林について何も知らなかった。お互いの橋渡し役となったのが小林の親友でもあった同志社大学前社長(同志社は当時「学長」ではなく、「社長」と呼んでいた)の原田助。小林は原田が認めた紹介状を携えて飛鳥山邸を訪問した。
渋沢も海外における日本人の活躍には注目していた。ハワイや米国、東南アジアはもちろん、南米にもある程度の興味を持っていたと思われる。現に大正5年(1916年)に創立された、南米に多くの卒業生を送り込んだことで知られている東京の世田谷にあった海外植民学校の顧問も務めていた。奇しくも小林美登利が生涯、恩人として仰いでいた村井保固も渋沢と同じく顧問を務めていた。
小林は紹介状を持ってきたとはいえ、最初はどこの馬の骨だか知れぬ人物だと渋沢の目に映ったかもしれないが、話を進めていく中、小林のハワイとアメリカ、そしてブラジルにおける体験、伝え聞き或いは文献で得た知識ではなく身を以って得た生の経験及び現場の実情と分析が話題に上がったのは想像に難くない。小林は英語とブラジルの公用語であるポルトガル語はもちろん、ドイツ語とフランス語もある程度理解できていたので広い視野に基づいた見識を持っていた。
その上で、これまで海外在住邦人を悩ませていた諸問題の一解決案として次世代の優れた人材を育成することによって異国ブラジルにおける日本人としての活躍と立場を確固たるものにして、同時に現地の知識人の協力を得て人種の垣根を取り除くことによって融和を図ることも目的とした、小林美登利が「聖州義塾」と命名した教育施設について渋沢を相手に熱弁を奮ったに違いない。
「小林美登利」と「聖州義塾」。これが渋沢の興味を惹いた。
(2022年1月2日投稿、毎週日曜日更新予定)
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