日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(1/5)
「渋沢栄一」といえばその名を聞いている人も多いだろう。丁度本日2021年12月26日に終了した、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公であり、また令和6年(2024年)には新しい一万円札の顔になる予定の人物である。
幕末では最初、勤王の志士として活躍、のちに徳川慶喜に仕え、幕臣として維新を迎えた。維新後には実業家として名を上げ、第一国立銀行(現みずほ銀行)をはじめ、多くの事業に携わった。「道徳経済合一説」を掲げたことでも有名である。現在の多くの大企業は「ビジョン、ミッション、バリュー」を以って会社の目指すべき理想を言語化している中、公益に資する理想を唱えている企業も多いが、渋沢は実に100年前にそれを提案している。
明治42年(1909年)に実業界から身を引き、社会事業や道徳普及運動、民間外交などに力を入れる。
大正12年(1923年)関東大震災に際し、政府、東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。また、救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成し、義援金集めにも奔走し、渋沢と交流のあった米国の実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。
その功績もあってか、渋沢は大正15年(1926年)と昭和2年(1927年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。
昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には、天皇陛下の勅使、皇后陛下・皇太后陛下の使者が差し遣わされた。
14日の通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、渋沢の事績を称えた御沙汰書が下賜された。葬儀は15日青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。
いかに彼が当時の社会に影響力を持っていた大物であることが分かるのではないか。
その渋沢栄一が晩年の昭和4年(1929年)、数えで90歳の時、一風変わった人物と会っている。
『渋沢栄一伝記資料』には
「六月九日 日 午前九時 小林美登利氏来約(飛鳥山)」とあり、その後に小林と四回も会っている。
(2021年12月26日投稿、毎週日曜日更新予定)
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